宗徳寺|八王子市滝山町にある曹洞宗寺院

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蟠龍山宗徳寺|八王子市滝山町にある曹洞宗寺院

宗徳寺の概要

曹洞宗寺院の宗徳寺は、蟠龍山と号します宗徳寺は、当地に土着した八木源左衛門(天正19年1591年没)が出家して、福聚寺と号して草創、少林寺第四世藍底盛悦が一寺として寛永16年(1639)に開山したといいます。なお、八木源左衛門は、武田勝頼が天目山で自刃した際、勝頼の子秀丸を託されたものの、天正18年(1590)に秀丸が病死してしまったことから出家したと伝えています。

宗徳寺
宗徳寺の概要
山号 蟠龍山
院号 -
寺号 宗徳寺
住所 八王子市滝山町1-719
宗派 曹洞宗
葬儀・墓地 -
備考 -



宗徳寺の縁起

宗徳寺は、当地に土着した八木源左衛門(天正19年1591年没)が出家して、福聚寺と号して草創、少林寺第四世藍底盛悦が一寺として寛永16年(1639)に開山したといいます。なお、八木源左衛門は、武田勝頼が天目山で自刃した際、勝頼の子秀丸を託されたものの、天正18年(1590)に秀丸が病死してしまったことから出家したと伝えています。(少林寺は単立寺院となっており現在は関わりありません)

新編武蔵風土記稿による宗徳寺の縁起

(八木宿)
當所天正年中に八木源左衛門と云もの居住せしゆへに地名のこれりと云、今町並の中に源左衛門が屋鋪跡あり、又隣村散田村は、昔源左衛門が知行なりといひ傳ふさればこの人もと北條陸奥守氏照の家士なりしにや、
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宗徳寺
除地、七畝十四歩、北側の中ほどにあり、蟠龍山と號す、禅宗曹洞派、瀧山少林寺の末寺なり、昔八木源左衛門と云もの薙髪して、當所に草庵をむすび福聚寺と號せしが、天正十九年十月廿三日、源左衛門沒し、その後も猶庵室殘りしを、少林寺の第四世盛悦院開山として一寺となれり、これ寛永十六年のことなり、故に今も源左衛門を以て開基とせり、本堂は七間に六間、本尊釋迦の像を安す、
觀世音堂。四間に二間、正觀音の立身を安す、この觀音は昔源左衛門が住せし福聚寺の本尊なりしと云傳ふ、
稲荷社。門を入て右にあり一間四方ほど、村内の鎮守也、(新編武蔵風土記稿より)

「八王子市史」による宗徳寺の縁起

宗徳寺(八木宿―八木町一八)
少林寺末に属し、山号蟠竜山。昭和二〇年八月の戦災で全焼したが、昭和三四年春、本堂庫裡が完成された。開基は八木源左衛門ではじめ草庵をこの地に結び福聚庵と称し、本尊観世音を信仰していたが、天正一九年(一五九一)一〇月二三日没した。後その庵室を改めて寛永一六年(一六三九)一寺としたのが当寺の起こりで、開山は少林寺第四世藍底盛悦である。当寺には史蹟として有名な千人同心出の地誌学者植田孟縉(一七五七~一八四三)の墓地があり、また本堂前にその碑が昭和三〇年七月建てられた。重野安繹撰・天野況堂書である。
なお、八木町町名は当寺開基八木氏から起こったものであるが、当寺の古記録によると、元亀年間(一五七〇~一五七三)武田信玄の客臣となった成田友兵衛康成が天正一〇年(一五八二)三月武田勝頼が天目山において滅亡の際、おのが一子秀丸を旧臣八木源左衛門に託して勝頼は殉死した。そこで源左衛門は遺児秀丸を伴い、この東久保(八木町)の地に隠れ住んでいたが、天正一八年(一五九〇)秀丸が病をもって没したので、彼は悲しみの余りこの地に自ら観音像一体を刻み、藍底盛悦の開眼をえて一庵を建てたというのが当寺の起こりであるが、その後荒廃していたのを、天和二年(一六八二)八木宿の朝倉五兵衛・佐藤久左衛門・風祭才兵衛の三名が四方に勧進し、七年目でようやく伽藍完成の緒につこうとした元禄光年(一六八八)に朝倉五兵衛は没したが、佐藤・風祭両名の努力によって再興の初願を全うした。しかるに寛政年中(一七八九~一八〇一)の火災で全焼し、再び当寺檀徒朝倉庄右衛門・久田順兵衛・井上三左衛門らが相謀って復興された本堂・庫裡が戦災前の伽藍である。当寺にはなお、境内に笠間稲荷社がある。(「八王子市史」より)


宗徳寺の周辺図


参考資料

  • 新編武蔵風土記稿
  • 「八王子市史」