興岳寺|八王子市千人町にある曹洞宗寺院

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萬松山興岳寺|千人頭石坂弥次右衛門森信開基

興岳寺の概要

曹洞宗寺院の興岳寺は、萬松山と号します。興岳寺は、廣岳院六世随翁舜悦和尚を勧請開山として月窓伝朔が寛永年間(1624-1643)石坂弥次右衛門屋敷内に草創、開基は千人頭石坂弥次右衛門森信だといいます。境内には石坂弥次右衛門の墓所があり、幕末には無血で日光を明け渡した責めを負って切腹した石坂弥次右衛門子孫義礼の墓は市史跡に指定されています。

興岳寺
興岳寺の概要
山号 萬松山
院号 -
寺号 興岳寺
住所 八王子市千人町1-2-8
宗派 曹洞宗
葬儀・墓地 -
備考 -



興岳寺の縁起

興岳寺は、廣岳院六世随翁舜悦和尚を勧請開山として月窓伝朔が寛永年間(1624-1643)石坂弥次右衛門屋敷内に草創、開基は千人頭石坂弥次右衛門森信だといいます。境内には石坂弥次右衛門の墓所があり、幕末には無血で日光を明け渡した責めを負って切腹した石坂弥次右衛門子孫義礼の墓は市史跡に指定されています。

新編武蔵風土記稿による興岳寺の縁起

(八王子千人町)興岳寺
境内除地、三段餘、街道の南側にあり、萬松山と號す禅宗曹洞派にて、江戸芝二本榎廣岳院の末寺にして、寛永の比かの六世の住僧随翁舜悦和尚の草創なりしを、後に赤塚の正月院山田の永明院の持と也、寛保二年より廣岳院に屬せりと云、開基は千人頭石坂菅兵衛が先祖彌次右衛門森信にして、今の境内も昔は彌次右衛門が屋敷なりしを、享保二十年罪あり改易せられて、一旦廢家となりし時、寺地のみは舊きによつて除き賜はりしとなり、當寺は近き年丙丁の災にかゝりて、堂舎以下ことごとく烏有となり、今は僅に假堂をいとなみ建てり、本尊は彌陀の立像なり、昔の本尊は開基彌次右衛門が自作の彌陀なりしがこれも回録の災にかゝりしより、その後ち千人組秋山喜左衛門と云者再造し寄附す。
薬師像一軀。此薬師は武田信玄の命によつて、石坂菅兵衛森通天目山中において感得する所にして、初は信玄の持佛とせしが、後菅兵衛あづかりしを、當寺に安置せり、坐身にして長四寸五分、靈佛なればとて常には開扉せずと云、もとは本堂の西腋に堂宇あつて安せしが、これも本堂と同時に回録せしかば、今は假堂に本堂と同じく安置せりと云。(新編武蔵風土記稿より)

「八王子市史」による興岳寺の縁起

興岳寺(千人町―千人町二-二〇)
心源院末に属していたが、寛保二年(一七四二)江戸芝二本榎広岳院末に変更した。その事情は不明である。寛永年間(一六二四~一六四三)月窓伝朔が舜悦を開山に請して草創し、開基は千人頭石坂弥次右衛門森信である。昭和二〇年八月の戦災で本堂庫裡一切を焼失したが、現在は再建された。新編武蔵風土記稿によると当寺の本尊は開基石坂弥次右衛門自作の弥陀であったが焼失したので、後千人同心の秋山喜左衛門が再造寄進したとあり、なお別に薬師像一躰があり信玄の命によって石坂森通が天目山中で感得し、信玄の持仏であったとあるが、これもまたすでに焼失した。当寺には開基石坂氏歴代の墓地があり、特に危局幕末の慶応四年(一八六八)閏四月一〇日、日光火の番から帰王した千人頭石坂弥次右衛門儀礼の割腹事件は、現在に至るまで謎の大波紋を残している。しかし何人といえども彼がひたすら日光廟安かれとの責任を痛感して、自ら処した最後の意志に対しては賞讃の辞を惜まぬものである。(「八王子市史」より)


興岳寺所蔵の文化財

  • 石坂弥次右衞門墓

石坂弥次右衞門墓

石坂弥次右衞門墓は名を義礼といい八王子千人頭の一人である。
慶応四年(一八六八)三月、日光勤番(定番萩原友親の急死に夜代番として)に赴いて、隊員五十人を受け継ぎ任にあたった。同年閏四月新政府軍(板垣退助等)が日光に迫った時、幕軍の大鳥圭介等に謀り、交戦せずに日光を明け渡し帰還した。
しかし郷土八王子には攘夷派の批判もありその問責の声に、責任を負い一人同月十日自刃し六十年の生涯をとじた。
法名 興樹院殿大忍義禮居士
戦後の研究により、日光東照宮を今日にあらしめた功績者の一人として世にたたえられるに至った。(八王子市教育委員会掲示より)

興岳寺の周辺図


参考資料

  • 新編武蔵風土記稿
  • 「八王子市史」