如意輪寺|西東京市泉町にある真言宗智山派寺院

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光明山如意輪寺|武蔵野三十三観音霊場、多摩八十八ヶ所霊場

如意輪寺の概要

真言宗智山派寺院の如意輪寺は、光明山福生院と号します。創建年代は不詳ですが、正保4年(1647)銘の墓石があることから、上保谷村の成立とほぼ同時期に創建されたものと推定されます。境内観音堂の如意輪観音は、武蔵野三十三観音霊場4番、多摩八十八ヶ所霊場35番です。寶晃院宝樹院、西光寺(現総持寺だが移転したため、東禅寺に変更)と共に保谷四軒寺と呼ばれています。

如意輪寺
如意輪寺の概要
山号 光明山
院号 福生院
寺号 如意輪寺
住所 西東京市泉町2-15-7
本尊 大日如来像
宗派 真言宗智山派
葬儀・墓地 -
備考 武蔵野三十三観音霊場4番、多摩八十八ヶ所霊場35番



如意輪寺の縁起

如意輪寺の創建年代は不詳ですが、正保4年(1647)銘の墓石があることから、上保谷村の成立とほぼ同時期に創建されたものと推定されます。

新編武蔵風土記稿による如意輪寺の縁起

如意輪寺
除地村の東方にあり。新義真言宗、豊島郡石神井村三宝寺の末、光明山福生院と号す。大門の両傍に並木あり。本堂7間に6間。本尊不動明王の立像を(長2尺作不知)を安置す。開山詳ならず。境内先住の墓碑最旧きもの権大僧都法印惠定、正保4年示寂と記したるあり。是より古き開基なる事知るべし。
古碑1基
境内にあり。永正2年乙丑2月20日、道西禅門と刻す。
鐘楼
本堂に向て右にあり。楼は2間四面、鐘の径り2尺余。高さ3尺7.8寸、銘なし。安永7戊戌年9月9日、願主当院中興傳燈大阿闍梨大僧都盛誉と刻みたり。
金山権現社。
鐘楼の側にあり。縁起詳ならず。
観音堂
是も同じ邊にあり。4間半四面、如意輪観音(1尺5寸作知らず)を安置す。
(新編武蔵風土記稿より)


如意輪寺所蔵の文化財

  • 馬駆け市大絵馬(西東京市指定文化財)
  • 境内石仏四基

六地蔵菩薩立像 万延元年(1860)建立

江戸時代の農家にとって、馬は農事や伝馬御用など重い荷物を運ぶ労苦用の家畜として、屋敷内の馬屋に飼われていました。信仰と馬は古くから縁を持ちますが、江戸中期元禄(1688-1703)の頃になると、街道のあちこちに石仏の馬頭観音が造立されて、飼馬を大切にする信仰が現れました。村落のお祭りが盛大になる化政期(1804-29)に至ると、観音信仰と結びついて、村々の観音菩薩を本尊とする寺院や観音堂に馬持中による「馬駆け市」と呼ぶにぎやかなまつりが催されるようになりました。観音の縁日の3月15日、五色の布を胴に巻いた飾り馬多数が、寺やお堂を激しく駆けめぐるのでしたが、この日は出店や見世物小屋などの市が立ち、この一年間に村に輿入れした花嫁がお参りする習俗も生まれ、別名「花嫁市」とも呼ばれました。
上保谷村の古刹如意輪寺観音堂でも、村のまつりの日となった馬駆け市が催されましたが、明治17年同寺観音講連中惣世話人により、その模様をリアルに描いた縦114cm、横181cmの大絵馬となって観音堂に奉納され、今も堂内を飾っています。保谷村の民俗行事をよくあらわしており、周辺区市に馬駆け市を伝える絵馬が皆無であるところからも、貴重な文化遺産です。(西東京市教育委員会掲示より)

境内石仏四基の移設と保存について

市内に残る文化財のうち、石仏の多くは江戸時代の街道や脇道の路傍に建立されました。これらの石仏は、昭和30年頃からの急速な市街化や忘れ行く信仰などによって、場所によりそのままの原位置に立ち続けることが困難な事例が生じました。
こうした事情によって、ここに表示する四基の石仏は、かって旧上保谷村の江戸時代、富士街道と字大門に建てられていましたが、順次如意輪寺の境内に移設されたものです。四基は仏教に由緒する民間信仰であり、六十六部回国塔を除く三基は、地域の村びとが親しく同一の信仰による講中を結んで造立しました。その旧位置からみて、講中には如意輪寺の檀家が多かったはずでしょう。時代の変化とはいえ、これらの石仏が原位置を追われても、上保谷村伝統の古刹である如意輪寺のご理解によって、境内に安住の地を得たのは、文化財である石仏を長く保存するための良き例となっています。
1.宝暦3年(1753)造立六十六部日本回国塔。旧所在地、西東京市富士町2-11(上保谷村字一里塚)
2.元禄14年(1701)造立青面金剛庚申塔。旧所在地、西東京市富士町2-11(上保谷村字一里塚)
3.寛政4年(1792)造立百札所巡礼成就塔。旧所在地、西東京市富士町1-14(上保谷村字)
4.宝暦4年(1754)造立青面金剛庚申塔。旧所在地、西東京市泉町2-16(上保谷村字大門)
(西東京市教育委員会掲示より)

如意輪寺の周辺図


参考資料

  • 新編武蔵風土記稿