田無神社|西東京市田無町の神社

猫の足あとによる多摩地区寺社案内

田無神社|鎌倉時代に尉殿大権現として創建、旧村社

田無神社の概要

田無神社は、正応年間(鎌倉期13世紀)の創建と伝えられ、谷戸の宮山に鎮座し、尉殿大権現と呼ばれていました。元和8年(1622)に上保谷尉殿神社に分祀、寛文10年(1670)には当地へ遷座しました。明治5年に田無神社と改称、村社に列格しています。

田無神社
田無神社の概要
社号 田無神社
祭神 大國主命、級長津彦命、級長戸辺命、須佐之男命、猿田彦命、八街比古命、八街比売命、日本武 尊、大蔦大神、応神天皇、他八百万の神々
相殿 -
境内社 弁財天、津嶋神社、煩大人神社、塩竃神社
住所 西東京市田無町3-7-4
祭日 例祭日10月第2日曜とその前日
備考 -



田無神社の由緒

田無神社は、正応年間(鎌倉期13世紀)の創建と伝えられ、谷戸の宮山に鎮座し、尉殿大権現と呼ばれていました。元和8年(1622)に上保谷尉殿神社に分祀、寛文10年(1670)には当地へ遷座しました。明治5年に田無神社と改称、村社に列格しています。

新編武蔵風土記稿による田無神社の由緒

尉殿権現社
除地、5畝3歩。小名宿あり。小社にて上屋設ふく。2間四方南向。拝殿2間に3間。神体久利迦羅不動、木像にて長1尺2寸、前に鳥居をたつ。村内の鎮守、西光寺の持。当社古は今の地より十町許北の方にありしが、元禄の比此地へ移せしと。今に古宮とて社地の跡その所にあり。(新編武蔵風土記稿より)

境内掲示による田無神社の由緒

田無神社は正応年間(鎌倉期13世紀)に谷戸の宮山に鎮座し、尉殿大権現と呼ばれていました。時代は下り、徳川家康が江戸幕府を開くにおよび、当神社は元和8年(1622)に上保谷に分祀し(尉殿神社)、さらに寛文10年(1670)に現在の地に遷座し、明治5年に田無神社と改称して現在に至っております。
御祭神の尉殿大権現は、すべての命の源である水とよろずの災を祓う風を司る、豊穣と除災の守護神で、その御姿は金龍神として顕現いたします。
金龍神は境内の東西南北に御祀りされている青龍神、赤龍神、白龍神、黒龍神の中心となり、その御神威をいや高めに高め、あらゆる災難、悪しき方位の障りを祓い除けて下さいます。
田無神社は大国主大神も主祭神としてお祀りされております。大国主大神は厄除、商売繁昌、学業成就、病気平癒、縁結び、国土開発の神様で世に福の神と呼ばれ、その御神徳の高さ、ご慈愛の深さは計り知れません。また須佐之男命(厄除・子育ての神)猿田彦命、八街比古命、八街比売命(交通安全の神)、日本武尊命、大鳥大神(開運の神)、応神天皇(外国文化を導く神)を合祀し、さらにすべての神々をお祀りしてあります。(境内掲示より)


田無神社所蔵の文化財

  • 田無神社本殿・拝殿(東京都指定文化財)
  • 獅子頭(二頭)(西東京市指定文化財)

榛名大権現石造物群

田無神社の創建は鎌倉時代(十三せ紀) と年えられ、江戸時代初期までは田無村字谷戸に頻座し、尉殿権現社と呼ばれていたが、青梅街道の整備されることに伴い、寛文10年(1670)に現在の地に遷座した。
覆殿内に現存する一間社入母屋造り向拝付の本殿は、本殿身舎の正面と背面は千鳥破風、前面の向拝の軒は唐破風をあしらい、屋根には銅板を葺いている。本殿が建立された年代等については、市内田無町の下田家所蔵文書から、名主下田半兵衛等が大工棟梁鈴木内匠と彫工島村源蔵(俊表) に依頼して、安政5年(1858)に着工し、翌安政6年に完成したことが判明している。
総欅造りといわれている本殿は、斗を三段に組んで軒や縁を壁面から突出せる三手先組み建築形式が多用されている。さらに、本殿の柱や壁には龍、獏、象、獅子などの動物と二十四考(中国の元代にまとめられた親孝行を就いた談話)に関係する彫刻が隅々までほどこされており、江戸時代の堂宮建築が到達した高度な大工技術と円熱した彫工の技量が相まった優れた建造物である。
また、拝殿は棟策と前後殿境の透し彫り欄間裏側に賀陽玄順が記した墨書から、地元の大工高橋金左衛門等によって、明治8年(1875)に竣工したことが明らかとなっている。本殿に劣らぬ気迫と技量によって造営されており、明治の初期において、地域の大工技量がなお高い水準を保っていたことを示す貴重な遺構である。(東京都教育委員会掲示より)

獅子頭(二頭)

田無神社に保存されている獅子頭(雄獅子・雌獅子各一頭)は、嘉永3年(1850)9月に制作され、元治元年(1864)4月修理されていることが獅子頭の内部に漆書きされています。
この獅子頭が制作された時代は、欧米の列強国が開国を迫ってきた時期で、国内は騒然としていましたが、田無村は宿場として最も繁栄し、また、天領(幕府直轄)農民としての意気も盛んな時代でもあり、獅子頭はこれを象徴したものと考えられています。
ニ頭の獅子頭は、上宿と下宿が毎年神楽を競い、豊作か凶作かを占うときに備えられたということですが、その後、雨乞いの獅子として村人から信伸されていました。獅子頭の外形は大きく金箔で仕上げられ、美術的な価値も高く辞価されています。(西東京市教育委員会掲示より)


田無神社の周辺図


参考資料

  • 新編武蔵風土記稿