光巌寺|あきる野市戸倉にある臨済宗建長寺派寺院

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鷲峰山光巌寺|武蔵五日市七福神の布袋尊

光巌寺の概要

臨済宗建長寺派寺院の光巌寺は、鷲峰山と号します。光巌寺は、東大寺の良弁僧正が当地に創建した富倉山慶雲寺を前身として、足利尊氏の命により、足利基氏が慶雲寺奥の院の地を改修して堂宇を整備、建武元年(1334)建長寺三十八世正宗広智禅師を開山に迎えたといいます。南北朝動乱の際には、足利基氏が弥仁親王(後の北朝第四代後光厳院)を当地に保護、後光厳院より「光厳寺」の勅額を拝領、寺号となっています。徳川家康の関東入国に祭して天正19年(1591)寺領20石の御朱印状を受領、塔頭五か寺、末寺二八か寺を擁する中本寺格の寺院でした。武蔵五日市七福神の布袋尊です。

光巌寺
光巌寺の概要
山号 鷲峰山
院号 -
寺号 光巌寺
住所 あきる野市戸倉328
宗派 臨済宗建長寺派
葬儀・墓地 -
備考 -



光巌寺の縁起

光巌寺は、東大寺の良弁僧正が当地に創建した富倉山慶雲寺を前身として、足利尊氏の命により、足利基氏が慶雲寺奥の院の地を改修して堂宇を整備、建武元年(1334)建長寺三十八世正宗広智禅師を開山に迎えたといいます。南北朝動乱の際には、足利基氏が弥仁親王(後の北朝第四代後光厳院)を当地に保護、後光厳院より「光厳寺」の勅額を拝領、寺号となっています。徳川家康の関東入国に祭して天正19年(1591)寺領20石の御朱印状を受領、塔頭五か寺、末寺二八か寺を擁する中本寺格の寺院でした。

新編武蔵風土記稿による光巌寺の縁起

(戸倉村)光嚴寺
境内、一萬三千五百坪餘、村の西方城山の麓にあり、鷲峯山と號す、古は壽峰と書して今の文字に改めしは其年代をしらず、天正年中(按十九年か)寺領廿石の御朱印を賜ふ、境内もその内なりといへり、開山は正宗廣智禅師なり、寺傳に云禅師は薩州の産にて、姓は藤原氏、名を印元と云り、初業を圓覺桃渓禅師に受け、其後入唐して法を夫目中峰國師に嗣ぎ、嘉暦の比歸朝の後建長圓覺等に轉住し其後當寺を創立し、應安七年正月廿四日示寂せりと、開基は鎌倉公方基氏なりとて木牌あり、寺傳かくの如くなれども、鐘銘によれば建武年中基氏の父尊氏の建立にして、其後光嚴院より院號を賜ひしと云、二説齟齬する所あり、されど廣智禅師行状を閲するに、當寺をひらきしこともみえざれば、とかく其徒などの開きし寺院などにやあらん、本尊は釋迦の木像、長一尺三寸、作しれず、脇士阿難・迦葉の二軀も木の木像にて、長一尺五寸餘、本堂は十一間に六間なり、堂中に古き位牌一基あり、前面に前上州太守重阿禅定門と書し、裏面に小宮上野介當所城主とあり、これ下に出せし城山に住せし人なるべけれど、その卒年をしるさざれば、恐くは後人の手に成しものなるべし、この餘道徳高僧の古像と云もの二軀あれど、その名をも傳へざれば考るに由なし、
鐘樓。本堂に向て左にあり、七尺に八尺、寶永五年鑄造の鐘にて、圓徑二尺六寸五分、銘に當山者建武年中聊呼革凡地、爲古道場者薩州之人而垂産於藤氏之家矣、正是西天目山中峯國師、法嗣入唐的傳之妙裔正宗廣智禅師、古先印元大和尚也、奥人皇九十九代之帝遥慕師之道風、降勅以賜寺號、爾来稱光嚴者也、殊源尊氏公覃歸祟既創建精舎、幷鐫洪鐘以寄置焉云云、等の文を彫刻せり
神明八幡合社。表門に向て左にあり、小社なり、(新編武蔵風土記稿より)

「五日市町史」による光巌寺の縁起

光巌寺
(戸倉三二八番地)臨済宗建長寺派の寺で、山号を鷲峰山と号す。当山の開創を伝える諸記録(「光厳寺由緒書」天正十三年。その他)によれば、建武元年(南北朝時代・一三三四)に創立し、当地方の禅宗寺院としては最も古い。開山は正宗広智禅師(古先印元)開基は足利尊氏、準開基足利基氏、再開基北条氏康である。当寺は初め東大寺の良弁僧正がひらいた富倉山慶雲寺と称する天台道場で、寺領百石と伝えられ、これが光厳寺の前身である。禅家開闢は建武元年、足利尊氏の命により、慶雲寺奥の院の地を改修、建長寺三十八世正宗広智禅師を屈請して開山とした。北朝第一代光厳院は禅師の道風に帰依し、寺号を賜い、再来「寿峰山光厳禅寺」と称したが、中古、良弁僧正の古事により山号を「鷲峰山」と改めた。南北朝動乱の際、足利基氏は弥仁親王(後の北朝第四代後光厳院)を守護し、しばらく当山に御滞在になった。延文元年(一三五六)、基氏は七堂伽藍を完備し、五百貫文の土地、一万五千坪の境内地及び山林等を寄進し、後光厳院より「光厳寺」の勅額を賜った。よって勅願所の称がある。永禄元年(一五五八)、兵火のため焼失したが、永禄十年(一五六七)に至り、小田原の北条氏康が再興し、先規のとおり寺領を寄進した。その後天正十五年(一五八七)及び文禄二年(一五九三)に焼失し再建。天正十九年(一五九一十一)月、徳川家康より寺領二〇石の御朱印が寄せられ、以後代々の将軍も同高の寺領を寄せ、塔頭五か寺、末寺二八か寺を有して栄えたが、安政三年・明治十年及び同十四年と、続いて火災にかかり、明治十二年より逐次諸堂を再興し、今日に至っている。
本尊は釈迦如来(仏日焔慧禅師二十七回忌供養のための彫刻点限、法印運朝作)で、天正二年(一五七四)記名の大涅槃画像その他の寺宝、また境内には町指定の天然記念物の桜の巨木がある。境内地は一〇六四坪、明治三十六年再建の本堂は、土蔵造りの珍しいものであったが、昭和五十年(一九七五)に改築された。
毎年一月二十四日開山忌、四月十二日大般若会、七月十六日大施餓鬼会等の法要が営まれる。
なお、塔頭寺院として慶雲寺(戸倉三三八)・神光院(戸倉四二八)・妙慶庵(戸倉三七〇) 長福庵(戸倉三二六)・養徳庵(戸倉三一七)の五か寺があったが、いずれも明治六年に光厳寺ヘ合寺した。
また、現在三島神社の摂社となっている武多摩神社は、もと慶雲寺持ちの不動堂で、光厳寺創立以来、同寺三十一世雲岡和尚の代(江戸中期)まで光厳寺で管理奉祀、長い間本郷集落の鎮守であったが、明治の神仏混淆禁止令により不動社を武多摩神杜と改称し祭神も改め、三島神社の摂神としたもので、「光厳寺由緒書」、『新編武蔵風土記稿』等が、その聞の消息を伝えている。(「五日市町史」より)


光巌寺所蔵の文化財

  • 戸倉城跡(東京都指定史跡)
  • 光厳寺扁額(あきる野市指定文化財)
  • 絹本着色仏涅槃図(あきる野市指定文化財)
  • 光厳寺のヤマザクラ(東京都指定天然記念物)

戸倉城跡

戸倉城は、あきる野市戸倉の五日市盆地を眼下に望む山頂に、室町時代から戦国時代にかけて築かれた山城です。
一五世紀頃に武州南一揆(秋川谷から南多摩地域にかけての武士集団)の一員であった土豪小宮氏が築城したとの伝承もありますが、詳細は不明です。その後、天文一五年(一五四六年)頃、北条氏康の次男氏照が多いし氏の名跡を継いで滝山城主となると、大石定久は戸倉に蟄居したと伝えられています。このことから戸倉城は、大石定久隠居城とも呼ばれています。
北条氏照が滝山城を拠点にして、甲斐の武田氏と対峙するようになると、檜原城が甲州口の押さえとなり、戸倉城は網代城や高月城を経て、滝山城や八王子城へと入ってくる情報を中継する機能をもつ城になっていったと考えられています。天正一八年(一五九〇年)、八王子城の落城とともに廃城となりました。
桝形・虎口・竪堀等の跡が、現状からでも確認することができます。(東京都教育委員会掲示より)

絹本着色仏涅槃図

沙羅双樹の下で釈迦が涅槃に入る(亡くなる)情景を描いた掛軸。右上に天より下りる生母摩耶夫人、周囲に諸菩薩、下方には様々の禽獣が集まり釈迦の入滅を嘆く構図。「天正二年(一五七四)甲戌十二月初八日」の銘があり、在銘のものとしては東京都でも最古に属する。
市指定文化財
光厳寺扁額
寺名を認めた横額で、寺伝によれば、北朝第四代後光厳院より賜った勅額を写したものである。裏面に「元亀元年十月五日天英和尚代造掛之者也」(一五七〇)の銘がある。典雅な書体で、光厳寺の由緒と戦国期の扁額の作例を示す資料。(あきる野市教育委員会掲示より)

光厳寺扁額

寺名を認めた横額で、寺伝によれば、北朝第四代後光厳院より賜った勅額を写したものである。裏面に「元亀元年十月五日天英和尚代造掛之者也」(一五七〇)の銘がある。典雅な書体で、光厳寺の由緒と戦国期の扁額の作例を示す資料。(あきる野市教育委員会掲示より)

光巌寺の周辺図


参考資料

  • 新編武蔵風土記稿
  • 「五日市町史」