福泉寺|あきる野市菅生にある臨済宗建長寺派寺院

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金谷山福泉寺|菅生太郎の子孫の墓・鎌倉時代作の絵像板碑

福泉寺の概要

臨済宗建長寺派寺院の福泉寺は、金谷山と号します。福泉寺の創建年代等は不詳ながら、教外玄授(新編武蔵風土記稿)が開山したとも、沢翁和尚(福泉寺什物帖)が開山したとも伝えられます。また、当寺裏の墓地にある自然石二基・地蔵菩薩一基が菅生太郎の子孫の墓と伝えられることから、かなり古くからあった寺を、永禄四年(一五六一)に広徳寺の住僧が、臨済宗に改めて中興したのではないかともいいます。

福泉寺
福泉寺の概要
山号 金谷山
院号 -
寺号 福泉寺
住所 あきる野市菅生629
宗派 臨済宗建長寺派
葬儀・墓地 -
備考 -



福泉寺の縁起

福泉寺の創建年代等は不詳ながら、教外玄授(新編武蔵風土記稿)が開山したとも、沢翁和尚(福泉寺什物帖)が開山したとも伝えられます。また、当寺裏の墓地にある自然石二基・地蔵菩薩一基が菅生太郎の子孫の墓と伝えられることから、かなり古くからあった寺を、永禄四年(一五六一)に広徳寺の住僧が、臨済宗に改めて中興したのではないかともいいます。

新編武蔵風土記稿による福泉寺の縁起

(菅生村)福泉寺
除地、四段八畝、小名井沼にあり、禅宗臨済派、同郡小和田村廣徳寺末、金谷山と號す、開山の僧教外玄授寂年を傳へず、本尊釋迦、木の坐像にして長九寸、客殿七間に五間半、南向なり(新編武蔵風土記稿より)

「秋川市史」による福泉寺の縁起

福泉寺
山号は金谷山という。臨済宗建長寺派に属し、もとは五日市町小和田の広徳寺末であった。本尊は釈迦如来坐像ある。
当寺の、開基開山については不明な点が多いようである。「新編武蔵風土記稿』は「開山の僧教外玄授寂年を伝えず」とあるが、『建長寺史末寺編』は、開山を沢翁潤禅師(寂年不詳)としている。明和五年(一七六八)の建長寺にある『福泉寺什物帖』に「開山沢翁和尚座像」とある。
山上茂樹翁は何に拠ったか、「寺伝によれば永禄四年(一五六一)僧沢翁の開基という。沢翁は広徳寺の住職徳翁の法孫」(『秋川市多西郷土精史』四六頁)とあるが、徳叟は、広徳寺の世代表によれば十世で慶長十九年(一六一四)一月十八日に入寂している。沢翁が徳翁の法孫とするとすこし年齢があわないようである。
開山を沢翁和尚とすると『新編武蔵風土記稿』にいう「教外玄授」なる人物沢翁と別人なのか、または別号であったかも明らかでない。
当寺は一説には、現在の地ではなく、西方の高台にあったものを、現在の所に移したのだという説がある。寺の裏の墓地に、自然石二基、地蔵菩薩一基の菅生太郎の子孫の墓といわれる墓地がある。この寺は菅生太郎の伝説と深いかかわりのあ寺で、かなり古くからあった寺を、永禄四年(一五六一)に広徳寺の住僧が、臨済宗に改宗して中興したのではないかと想像されるのである。なお都内でも珍らしい素焼の禅師僧が保存されている。四世山由了和尚の像で「寛文十一年(一六七一)辛亥七月十日」とある。
正徳年中(一七一一~一五)火災にあって焼失したのを、明和年間(一七六四~七一)十世天産祥和尚が復旧した。
その後経済的に恵まれぬことも多く、十二世の光領玄珠和尚が元治二年(慶応元、一八六五)に入寂してから、昭和四十七年(一九七二)まで無住の時代が長い間続いていた。このため古記録、寺宝等は殆んど残っていない。(「秋川市史」より)


福泉寺所蔵の文化財

  • 福泉寺の板碑一基(あきる野市指定有形民俗文化財)

福泉寺の板碑一基

板碑は、鎌倉時代から室町時代にかけて、追善や供養などの目的で作られた石製塔婆の一種です。
板碑の多くは中央に仏や菩薩を表した梵字(種字)を刻んでいますが、この板碑は中央に阿弥陀が彫られていて、このような板碑は絵像板碑あるいは画像板碑と呼ばれています。また、下部には観音菩薩の頭部がわずかに見えることから、更に七〇センチ以上あったものと考えられ、多摩地域では稀にみる大板碑です。
像の特徴などから鎌倉時代と考えられ、この時代の絵像板碑としては市内唯一です。(あきる野市教育委員会掲示より)

福泉寺の周辺図


参考資料

  • 新編武蔵風土記稿
  • 「秋川市史」