丸ヶ崎氷川神社。さいたま市見沼区丸ヶ崎町の神社

猫の足あとによる埼玉県寺社案内

丸ヶ崎氷川神社。鷲宮神社又は野々宮神社を勧請して創祀

丸ヶ崎氷川神社の概要

丸ヶ崎氷川神社は、さいたま市見沼区丸ヶ崎町にある神社です。丸ヶ崎氷川神社の創建年代等は不詳ながら、元禄11年(1698)の絵図にわしみやともののみやとも読める社が記載されていて、わしみやであれば、鷲宮神社を勧請して創建した現境内社が、ののみやであれば野々宮氏(狭山市野々宮神社日高市野々宮神社鴻巣市野宮神社)との関わりが窺われるといいます。当社本殿所蔵の神鏡には正徳5年(1715)銘で氷河大明神とあることから、その頃には氷川社と称しており、丸ヶ崎村の鎮守社として祀られ、明治6年には村社に列格、明治41年字字上新田の子膾神社、字本村の稲荷社、字合ノ谷の第六天社、同境内社水神社、字新田の稲荷社、字押廻の雷電社を合祀しています。

丸ヶ崎氷川神社
丸ヶ崎氷川神社の概要
社号 氷川神社
祭神 素戔嗚尊
相殿 -
境内社 八雲社、天満社、稲荷社、鷲宮社
住所 さいたま市見沼区丸ヶ崎町8
祭日 -
備考 -



丸ヶ崎氷川神社の由緒

丸ヶ崎氷川神社の創建年代等は不詳ながら、元禄11年(1698)の絵図にわしみやともののみやとも読める社が記載されていて、わしみやであれば、鷲宮神社を勧請して創建した現境内社が、ののみやであれば野々宮氏(狭山市野々宮神社日高市野々宮神社鴻巣市野宮神社)との関わりが窺われるといいます。当社本殿所蔵の神鏡には正徳5年(1715)銘で氷河大明神とあることから、その頃には氷川社と称しており、丸ヶ崎村の鎮守社として祀られ、明治6年には村社に列格、明治41年字上新田の子膾神社、字本村の稲荷社、字合ノ谷の第六天社、同境内社水神社、字新田の稲荷社、字押廻の雷電社を合祀しています。

新編武蔵風土記稿による丸ヶ崎氷川神社の由緒

(丸ヶ崎村)
氷川社
村の鎮守なり、多門院持社の傍に庵を結び、彼院より僧を置て守らしむ。
末社。天神社、稲荷社。(新編武蔵風土記稿より)

「埼玉の神社」による丸ヶ崎氷川神社の由緒

氷川神社<大宮市丸ヶ崎町八-三(丸ヶ崎字中原)>
元禄十一年(一六九八)の丸ケ崎村絵図(金子忠芳家)には、現在当社のある辺りに「わしみや」とも「のゝみや」とも読める社が見える。「わしみや」とするならば、現在当社の境内にある鷲宮神社がそれに当たると思われ、中世、当地が鷲宮町の神領に含まれていた可能性がある。一方、「のゝみや」とするならば、県内に同社名の社は、日高市・狭山市・鴻巣市に一社ずつあり、狭山市北入曽の野々宮家の口碑に、「先祖は神武天皇東征に従い日向国より大和に入り、やがて朝命により兄弟三人東国に派遣され、一人は入間(狭山市)に、一人は高麗(日高市)に、一人は鴻巣に居を構えて、それぞれ野々宮神社を祀り、土地の経営に当たった」とある。
いずれにしても、いつのころからか氷川神社と号するようになり、本殿に奉安する神鏡には「神前奉氷河大明神 正徳五乙未歳(一七一五)六月大吉祥日 江戸新橋加賀町大坂屋仁兵衛」と墨書されている。
『風土記稿』丸ケ崎村の項には「氷川社 村の鎮守なり、多聞院持、社の傍に庵を結び、彼院より僧を置て守らしむ」とある。これに見える多聞院は、延元年間(一三三六-四〇)草創と伝えられる真言宗の寺院である。また、庵は現在の社務所の辺りにあったものである。
神仏分離によって庵は廃され、当社は多聞院の管理下から離れて、明治六年に村社となり、同十一年に社殿が再建された。(「埼玉の神社」より)


丸ヶ崎氷川神社の周辺図


参考資料

  • 新編武蔵風土記稿
  • 「埼玉の神社」(埼玉県神社庁)