裏慈恩寺子之神社。さいたま市岩槻区裏慈恩寺の神社

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裏慈恩寺子之神社。村民町田左京が、飯能市吾野の子の権現を勧請

裏慈恩寺子之神社の概要

裏慈恩寺子之神社は、さいたま市岩槻区裏慈恩寺にある神社です。裏慈恩寺子之神社の創建年代は不詳ながら、当地の村民町田左京が、飯能市吾野の子の権現を、自分の屋敷の一角に守り本尊として勧請したといいます。明治20年以降は裏慈恩寺の住民全体で祀るようになったといいます。

裏慈恩寺子之神社
裏慈恩寺子之神社の概要
社号 子神社
祭神 -
相殿 -
境内社 -
住所 さいたま市岩槻区裏慈恩寺1404
祭日 -
備考 -



裏慈恩寺子之神社の由緒

裏慈恩寺子之神社の創建年代は不詳ながら、当地の村民町田左京が、飯能市吾野の子の権現を、自分の屋敷の一角に守り本尊として勧請したといいます。明治20年以降は裏慈恩寺の住民全体で祀るようになったといいます。

新編武蔵風土記稿による裏慈恩寺子之神社の由緒

(裏慈恩寺村)
子神社
村民の持。(新編武蔵風土記稿より)

「埼玉の神社」による裏慈恩寺子之神社の由緒

子神社<岩槻市裏慈恩寺一四〇四(裏慈恩寺字蓮台耕地)>
裏慈恩寺は、元荒川左岸当方の台地上に位置する農業地域で、元は慈恩寺村の内であったが、天和年間(一六八一-八四)に分村したと伝えられる。当社は、『風土記稿』裏慈恩寺村の項に「子之神社 村民の持」と載るように、元来は町田家の個人持ちの社であったが、明治二十年以降は裏慈恩寺の住民全体で祀るようになった。このようになったのは、それまで裏慈恩寺の人々は、慈恩寺の人々と一緒に慈恩寺の地内にある月読神社を鎮守として祀っていたが、明治二十年にいさかいが生じて月読神社の氏子を抜けたためであるという。
口碑によれば、当社は、町田(一説によれば藤井)左京という鳶の頭で、大地主でもあった人が、飯能市吾野の子の権現を、自分の屋敷の一角に守り本尊として勧請したことに始まるという。この話に伝えられる当社の創建がいつのころのことかは定かではないが、棟札には宝暦九年(一七五九)に社殿を再建した旨が記されている。ちなみに、現在の社殿は、平成六年に建て直されたものである。
また、本殿には厨子に収められた大日如来座像(全高一九センチメートル)と共に、筥に納められた幣帛が安置されているが、幣帛の筥には「明和七年(一七七〇)三月十六日神祇管領卜部兼雄」の墨書がある。これらのことから考えると、宝暦九年の社殿の再建を機に、京都の神祇管領吉田家から幣帛と受けたものと思われる。(「埼玉の神社」より)


裏慈恩寺子之神社の周辺図


参考資料

  • 新編武蔵風土記稿
  • 「埼玉の神社」(埼玉県神社庁)