子ノ権現天龍寺。飯能市南にある天台宗寺院

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子ノ権現天龍寺。子ノ聖が平安時代に創建、旧独立本山

子ノ権現天龍寺の概要

天台宗寺院の子ノ権現天龍寺は、大鱗山雲洞院と号します。天龍寺は、干支などで一番最初を意味する「子」に因む天長9年(832)の子ノ年ノ月子ノ日子ノ刻に生まれた子ノ聖が延喜11年(911)に創建、足腰守護の神様として広く信仰され、いずれの宗旨宗派にも属さない独立本山として法子相続してきましたが、宝永2年(1705)輪王寺宮の末寺となり、明治元年(1868)天台宗延暦寺末となったといいます。奥の院のある「経の峰」という地名や、寺名の天龍寺など、子ノ聖に因む名称が今も数多く残っています。神仏混淆が残されている寺院として著名で、天台宗の特別寺(別格本山)です。本尊の十一面観音は武蔵野三十三観音霊場32番、延命地蔵尊は関東百八地蔵霊場10番となっています。

天龍寺
天龍寺の概要
山号 大鱗山
院号 雲洞院
寺号 天龍寺
本尊 子ノ聖大権現(本地仏十一面観音)
住所 飯能市大字南461
宗派 天台宗
葬儀・墓地 -
備考 大祭4月10日(化寂日)、開山祭6月10日、釋迦誕生会5月8日



子ノ権現天龍寺の縁起

天龍寺は、干支などで一番最初を意味する「子」に因む天長9年(832)の子ノ年ノ月子ノ日子ノ刻に生まれた子ノ聖が延喜11年(911)に創建、足腰守護の神様として広く信仰され、いずれの宗旨宗派にも属さない独立本山として法子相続してきましたが、宝永2年(1705)輪王寺宮の末寺となり、明治元年(1868)天台宗延暦寺末となったといいます。奥の院のある「経の峰」という地名や、寺名の天龍寺など、子ノ聖に因む名称が今も数多く残っています。神仏混淆が残されている寺院として著名です。

境内掲示による子ノ権現天龍寺の縁起

由緒
当山は、延喜十一年(911)に子ノ聖が天龍寺を創建されたことに始まります。子ノ聖は、天長九年(832)、子ノ年ノ月子ノ日子ノ刻に紀伊の国でお生まれになりました。幼い頃より聡明にして仏教に通じ、僧となっては諸国をまわり修行を積まれました。特に出羽三山において修業をかさね、ある日、月山の頂上に登り、年来読誦する般若心経を取り出し、「南無三世仏母般若妙典、願わくば、われ、永く跡を垂るべき地を示し給え。」と空高く投げました。すると、そのお経は南へ飛んで、当山の奥の院(経ヶ峰)に降りたち光を発しました。この光を目当てに当山山麓まで来られ、山を開こうとした聖は、悪鬼どもに襲われ火を放たれました。しかし、十一面観音が天龍の姿となって現れ、大雨を降らしその火を消してくれました。その後、当山で修業教化に励まれた聖は、長和元年(1012)「我、すでに化縁つきぬれば、寂光王に帰る。然れども、この山に跡を垂れて、永く衆生を守らん。我、魔火のために腰よし下に傷を負い悩めることあり。よって、腰より下に病ある者、誠の心で我を念ずれば、かならず霊験を授けん。能除一切苦。」とおいう御誓願を遺し、齢百八十一才で化寂されました。
それ以後、子ノ聖の尊像をお祀りして、足腰守護の神様として広く信仰されることとなりました。尚、「子」には、物事の始まり、全てのものを生み出し育む大本の意味があります。(境内掲示より)

飯能市史資料編による子ノ権現天龍寺の縁起

子ノ聖が草庵を結び、その弟子恵聖が譲り受けて一寺とした。開山第一世は恵聖上人で長久2年(1041)3月5日に示寂し、その後出羽の国羽黒末として、法子相続をしてきたが、宝永2年(1705)輪王寺宮の末寺となり、明治元年(1868)維新の改変により延暦寺末となった。(飯能市史資料編より)

新編武蔵風土記稿による子ノ権現天龍寺の縁起

(中澤組)
子権現社
上中下澤の西邊山上にあり、此山は一區をなして頗る高く殊に其名世に聞へて繁榮せり、諸堂社及び別當など、悉く棟宇を連て、年ありし古跡なり、除地八段七畝十四歩、差置地九町に十二町許、山の方量東西一理程、南北十九町許、北の麓より峻阪曲折して登ること一里許、此外東口南口より二條の捷徑あり、縁起の略に、昔時紀伊國天野郷に阿字長者と云賢女あり、一生貞寡にて既に耳順に及べり、ある夜氣高き梵僧来て我に救世の願あり、姑く長者の胎に託せんと、長者の曰、妾が腹垢穢也、豈聖居に當らんや、梵僧曰、我は唯丞濟を欲す、何ぞ穢を厭べきとて、口中に入と覺て、夢はさめぬ夫より懐孕の心地つきて居諸かさなり、胎に處ること十二月にして、淳和天皇天長九年壬子歳子月子日子時に降誕し給ふ産室の奇瑞勝て計ふべからず、依て童亂にして薙染す、岐嶷絶倫たり、長壽に及て貴賤渇仰して天野の聖と號し、又降誕の年月日時等く子にあたりければ、子の聖とも稱す、夙志ありて普く勝地靈蹤に至る、曾て羽州湯殿の奥に練行すること數年、ある時月山の峰に登て、年来所誦般若經を撃て南無三世佛母般若妙典、願くば我が永く跡を垂べき地を示給へと、誓て虚空に投ければ、遥に南に飛て武蔵國秩父郡我野の峰に止り、光明虚空を照せり、聖此光を認て我野の郷へ尋入り、麓に暫眠臥したまふ、こゝに此山に住處の鬼類、その隙を窺ひ、火を放ければ、山野悉く火烈となり、衣のすそに燃つきぬ、聖端座合掌して、火坑變成池と念じたまへば、たちまち天龍あらはれ、《寺を天龍と號す、この謂なり》、法雨をそゝぎければ、猛火即消滅せり、聖奇瑞の思をなし、頭を回せば天龍は十一面觀音と現じ、寶珠洞に入、時に鬼類悔過自責して聖の前に低頭し、我輩常に酒を嗜むが故に惡念に住し、佛法の敵となり、今又聖者に怨み奉こと歎きても猶餘ありとて、各故薬を檗て正法に歸す、聖猛火のために腰膝を傷ひたまひければ、暫其所に止りたまふ、《今の下あま寺これなり》かくて峯に登り給ふに、果して彼御經あり、即石函に容て峯に納め、《この故に經のみねと名づく》、春秋送ること百八十歳、ある時里民に告て曰、我今化縁盡ぬれば寂光土に歸るなり、然れども此山に迹を垂て永楽生を守らしむ、就中火災を除べし、又腰下の病あらんもの、祈らば即その驗を得ん、昔鬼類の予に仇せし酒の過によれり、故にこの山かたく酒を禁ずべし、予を信ずる輩酒を禁じて所求を祈らんに、靈應空からじと誓ひ、三條院長和元年壬子三月十日に昇天せり、道俗悲慕して則その所を鎮座と定め、社を建子の権現と崇祀る、招来靈驗新にして火災遁れ、腰下の病患を免れたる貴賤、古今其數量難し、又權現の詠歌とて傳ふ其詞に曰、岩まもるあまの瀧つせたへせすは、神の誓の末あれとして、神體は木の坐像長一尺五寸、自作なりと云傳ふ、例祭三月十日・十一月初子の日、
本社。九尺に二間南向、
幣殿。二間に三間、
拝殿。三間に六間、子權現の扁額を掲ぐ
瑞籬。本社の左右後の三方、各六間、
二天門。前に石燈あり、下ること階級十餘、
黒門。大鱗山の扁額を掲ぐ、
銅鳥居
龍谷橋。當山南の入口にあり、
神楽殿。
手水屋
本地堂
念佛堂
鐘樓。鐘徑二尺四寸、寶永六年再鑄なり、銘文略す、
住吉社
護摩堂
薬師堂
諏訪社
妙見社
大黒社
摩利支天社
天満社。以上合殿
雷神社
秋葉社
稲荷社。以上合殿
山神社
辨天社
觀音堂
別當天龍寺
大鱗山雲洞院と號す、天台宗東叡山末、其初め東叡山に隷せざる時は、一山一寺にて定宗なし、又修験にもあらず、法子にて相續すと云ふ、子聖始て草菴を結び、其弟子惠被知譲を受てより一寺となり、子聖を權現と尊崇し、惠聖を開山となす、長久二年三月五日示寂、中興を教海と云、享保十八年十一月十四日寂せり、末寺一、門徒二、
客殿
書院
庫裡
長屋
土蔵
寺寶龍鱗石。當山第一の什寶、圓石径六分程、其色瑠璃の如し、子聖始て登山の時、野火の患にかゝりしが、端座合掌して火坑變成池と念ぜしとき、天龍忽ち法雨を降して、猛火速に消せりとぞ、乃時天龍一の鱗を遺せしが、變じて石と化せりとて、今に傳来す、
方寸心經。紙中五分四方に般若心經を書せり、子聖の眞跡と云、
大般若經一巻。一百八十九の巻なり、是も子聖の書なりと云、巻末に旡定殃而不消、旡福楽而不成者、般若之金言眞空之妙典、被稱諸佛之父母聖賢之師範也、所以至誠奉寫大般若經一分六百巻、三世大覺十方賢聖咸共證明我現當之勝明必成就、貞觀十三年歳次辛卯三月三日とあり、
六字名号一軸。東叡山二世本照院一品親王公海染筆
延命地蔵畫像一軸。紀州家より奉納の品なりと云、
薬師畫像一軸。これも前に同じ、
金印一
彌陀銅像一體。圓鏡徑七寸、其内に長三寸五分の像を鑄造せり、
不動厨子入。一に三日月不動と云、木立像長五寸二分、二童子各木立像、共に長三寸五分、岩上に立てり、智證大師の作
阿字女像一軀。木の坐像一尺、子聖自作なりと云、圖左に載す、
千手觀音厨子入一體。木立像一尺、弘法大師の作、
勝軍地蔵厨子入一體。木立像長七寸五分傳教大師の作、
彌陀厨子入一體。木坐像長三寸、毘首羯磨の作、桂昌院殿より寄附せられしと云、
大日厨子入一體。木坐像長六寸五分弘法大師の作
佛舎利一。大さ菽粒の如し、岡部忠澄が護持の品
矢根石。神軍の頃の品なりと云ふ、
仙面石一。大さ六寸許、
馬蹄石。大さ五寸許、馬蹄の後ある故に名く
螺石。大さ六寸許、螺の化石也。
駒角一。長さ一寸八分徑一寸一分、境内山水樹石あるものを左に載す、
阿字山。山上の山にて登ること一町許、此所に大日堂ありて、阿字女の靈を祀り、及び當山歴世の墓碑あり、又大日の露坐せる銅像あり、
愛宕山。これ又同登ること一町許、小祠あり
来迎岩。一に經掛石と云、子聖月山の峰より投ぜし般若經の留りし岩にて、即ち茲に来住せし古蹟なり、
天狗岩
座禅石
天狗松
一本杉
袈裟掛松。子聖當山草創の時、袈裟を掛たりし松なりと云ふ
飯盛杉。二本一は圍一丈五尺餘、一は一丈九尺餘、其下に山王の小祠を安ず、
辨天井
三日月井
天ノ瀧
龍谷瀧(新編武蔵風土記稿より)


子ノ権現天龍寺所蔵の文化財

  • 木造不動明王立像(市指定有形文化財)
  • 二本杉(埼玉県天然記念物)

木造不動明王立像

この不動明王像は本堂左側壇上に安置されており、像高一〇一・七センチメートルの一木造り(材質は不明)の三尺像である。
不動明王像は護摩の香煙によって木理も判然としないほど黒ずんでいる。そのため、一見忿怒の面相が厳しく見えるが、素地は穏やかな面貌である。丸顔の面部、面高な頭部、肉付きの良い体軀、部厚い条帛を左肩にかけて簡素な裳を薄手に彫り出し、右肩をわずかに前に出している。これらのことから、この像は、藤原様を伝えた地方仏師の作と見られ、十二世紀を降らない頃の貴重な平安仏である。
なお、両腕は肩から別材が用いられ、両脚も膝下から継がれており、後補されている。(飯能市教育委員会掲示より)

子ノ権現天龍寺の周辺図


参考資料