源義賢墓。比企郡嵐山町大蔵にある旧跡・名所

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源義賢墓。埼玉県内最古の五輪塔

源義賢墓の概要

源義賢墓は、比企郡嵐山町大蔵にある名所旧跡です。源義賢墓は、大蔵館に居住していた源為義の次子帯刀先生源義賢の墓で、県内では最古の五輪塔です。源義賢は源為義の次子で、群馬県多胡館から当地の大蔵館へ拠点を移していた折、源義朝の長子悪源太(源義平)と大蔵館で合戦に及び久寿2年(1155)討たれています。鎌形八幡神社近くで生まれた源義賢の次子木曽義仲は、木曾へ遁れ再起したものの、源頼朝に敗北、義賢の旧家臣七氏は明覚に隠、頼朝の追及を恐れた旧家臣は明覚郷・腰越・福田へちりぢりに別れ、当地に土着した馬場氏が旧主君の霊を弔ってきたと伝えられます。

源義賢墓
源義賢墓の概要
旧跡・名所名 源義賢墓
区分 埼玉県指定史跡
入場時間 -
入場料 -
住所 比企郡嵐山町大蔵
備考 -




源義賢墓の縁起

源義賢墓は、大蔵館に居住していた源為義の次子帯刀先生源義賢の墓で、県内では最古の五輪塔です。源義賢は源為義の次子で、群馬県多胡館から当地の大蔵館へ拠点を移していた折、源義朝の長子悪源太(源義平)と大蔵館で合戦に及び久寿2年(1155)討たれています。鎌形八幡神社近くで生まれた源義賢の次子木曽義仲は、木曾へ遁れ再起したものの、源頼朝に敗北、義賢の旧家臣七氏は明覚に隠、頼朝の追及を恐れた旧家臣は明覚郷・腰越・福田へちりぢりに別れ、当地に土着した馬場氏が旧主君の霊を弔ってきたと伝えられます。なお、明覚郷の萩日吉神社例大祭に奉納される流鏑馬は木曾義仲の家臣七苗が天福元年(1233)に奉納したのが始まりと伝えられます。

境内掲示による源義賢墓について

源義賢の墓
義賢は、源為義の次子(長子は義朝)で、近衛天皇が東宮の時に仕え、帯刀の長となったので、帯刀先生と称され、その後東国に下り、上野国多胡館(群馬県多野郡吉井町)を本拠地としたので、多胡先生とも称された。
更にその後、この地(大蔵館)に移住し武蔵国や上野国に勢力を振るったが、久寿二年(一一五五年)八月十六日、大蔵館で義朝の長子である甥の悪源太(源義平)と合戦して討たれた。
なお、木曽義仲は、義賢の次子である。
源義賢の墓とつたえられるこの五輪塔は、数度の火災にあったためか、やや赤く変色しているが、県内では最古の部類に属するものである。
大正十三年三月三十一日に県指定史跡に指定されている。(埼玉県掲示より)

境内掲示による源義賢墓について

源義賢墓
この五輪塔は、火輪部と水輪部のみ残存しており、空輪部と地輪部は後から補われたもので、風輪部は欠損しています。在質は凝灰岩製で、火災にあったためか変色のあとがみられ、損傷も激しかったため、昭和五十二年に東京国立文化財研究所により修復処理されました。
このかたちは、いわゆる古式五輪塔と呼ばれ、県内に所在する五輪塔の中では最古の例です。
なお、この墓は、義賢ゆかりの人々が供養のために建立したものと考えられます。(嵐山町教育委員会掲示より)

新編武蔵風土記稿による源義賢墓について

(大蔵村)
古墳
巽の方村民丈右衛門が持の畑中にあり、相傳ふ帶刀先生が墳墓なりと、高さ三尺許とおぼしき塔なれども、半は土中に埋り、且五輪も缼損し、其中わづかに梵字を彫りたる、五輪の内の一石のみ殘れり、それに雨覆ひをなし注連を引き、土人は御前の碑などいへど、これも定かならず、(新編武蔵風土記稿より)


道路対岸の源氏三代供養塔について

源氏三代供養塔
帯刀先生源義賢公は源氏の棟梁源為義の次男で木曽義仲公の父である。義賢公は河越重隆の養君となり、この地大蔵に館を構えていたが、久寿二年(一一五五)、大蔵の合戦で兄である義朝の長男・悪源太義平に討たれ悲運の最期を遂げた。
新藤家には義賢公の墓(埼玉県指定史跡)とされる五輪塔が祀られている。
なお、この時、二才の駒王丸(後の義仲公)は畠山重能・斉藤別当実盛らにより木曽の中原兼遠のもとへ送りとどけられた。
大蔵で生まれ、木曽で成長した義仲公は平家追討の令旨を受け挙兵し、寿永二年(一一八三)には京都に入り後白河法皇から朝日将軍の称号を賜った。しかし翌、元暦元年(一一八四)、源頼朝が派遣した源範頼・義経軍に敗れ、近江国粟津ヶ原で討ち死にし、波乱に満ちた三十一年の生涯を閉じた。
義仲公の長男である清水冠者義高公は、鎌倉へ人質として送られ、頼朝の長女大姫の許婚として日々を送っていたが、元暦元年(一一八四)父・義仲公の死を聞いた義高公は密かに鎌倉を出立し、父・祖父ゆかりの大蔵の地を目指し鎌倉街道を北上したが、同年四月、頼朝の追手により入間川で討ち取られた。僅か十二年の生涯であった。
この供養塔は、義賢公・義仲公・義高公ゆかりのこの大蔵の地において、志半ばで倒れた悲運の武将・義仲公・義高公を祀り、新藤家の義賢公墓とあわせ、源氏三代の菩提を弔い、供養するものである。
平成十八年十一月十三日
大行院(境内掲示より)

源義賢の家臣馬場氏について

福田郷に土着した源義賢の家臣馬場氏の由来
久寿二年大蔵合戦に敗れた義賢の家臣七氏九名は明覚郷に落ち延び郷中の百姓屋に隠住した。三十年後、一一八六年春、源頼朝が六十六ヶ国の惣追捕使に任命された由を聞き家臣達は大蔵の落武者の発覚を恐れ市川・馬場・荻窪の三氏は明覚郷に、横川・伊藤・小林・加藤の四氏は腰越に、馬場兵衛次郎の弟源次郎の一名は福田郷に移住が決まった。
木曽義仲の死後義賢の系統は断たれたと思っていたところ義仲に桜木の局という側室がいた。木曽義次郎という男児有り六歳の折、母病死の為十三歳の時、祖父義賢の遺臣の子孫を便り慈光寺近辺に居住名を母方の信濃国栗本邑の馬場の姓をとり馬場丈次郎義因成人して義綱と称す。平邑の娘を娶り福田郷に移り旧臣馬場源次郎宅の近くに定住した。
一二〇五年主従関係の二人の馬場家は正月十五日福田地内の一孤山現上福田の浅間山に浅間神社を創祀し木花咲耶姫命と源義賢及び義仲の霊を合祀したと記録されている。
古くは参道下野平地で流鏑馬を奉納した尚馬場氏は栗本と氏を改め又その子孫は栗原と改めたと伝えられる。
滑川村史引用
平成二十三年十一月二十四日
滑川町長吉田 昇(境内石碑より)

源義賢墓の周辺図


参考資料

  • 「新編武蔵風土記稿」