春日神社。入間郡越生町西和田の神社

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春日神社。越生十六郷総鎮守、流鏑馬神事

春日神社の概要

春日神社は、入間郡越生町西和田にある神社です。春日神社の創建年代等は不詳ながら、延暦元年(782)の創建だと伝えられ、征夷大将軍坂上田村麻呂東夷征伐の際に当地へ遷座し内裏大明神を祀り、平将門が当地に内裏を置いたといいます。一方、龍穏寺第七世僧良筠が天文12年(1543)記した春日神社の縁起によると、左遷された藤原季綱(毛呂氏の先祖)が越生郷に幽棲、秩父郡高山の峯に放った光を内裡明神と称して祀ったともいいます。慶安2年(1648)江戸幕府より社領5石の御朱印状を拝領、寛政10年内裏大明神を春日社と改め、越生十六郷総鎮守と定められたといいます。当社の流鏑馬神事は、当社が所持していて大般若経を、最勝寺の有していた流鏑馬神事と交換したものだとの伝承が残されています。

春日神社
春日神社の概要
社号 春日神社
祭神 武甕槌神
相殿 天児屋根神、斎主神、比売神、誉田別神、木花咲耶比売神、菅原道真公、倉稲魂神、大己貴神、太田神、大宮比売神、中筒男神、表筒男神、底筒男神、神功皇后、大日霊神
境内社 八坂社、大黒天
祭日 10月9日
住所 入間郡越生町西和田317
備考 -



春日神社の由緒

春日神社の創建年代等は不詳ながら、延暦元年(782)の創建だと伝えられ、征夷大将軍坂上田村麻呂東夷征伐の際に当地へ遷座し内裏大明神を祀り、平将門が当地に内裏を置いたといいます。一方、龍穏寺第七世僧良筠が天文12年(1543)記した春日神社の縁起によると、左遷された藤原季綱(毛呂氏の先祖)が越生郷に幽棲、秩父郡高山の峯に放った光を内裡明神と称して祀ったともいいます。慶安2年(1648)江戸幕府より社領5石の御朱印状を拝領、寛政10年内裏大明神を春日社と改め、越生十六郷総鎮守と定められたといいます。当社の流鏑馬神事は、当社が所持していて大般若経を、最勝寺の有していた流鏑馬神事と交換したものだとの伝承が残されています。

新編武蔵風土記稿による春日神社の由緒

(和田村)
春日社
慶安二年社領五石の御朱印を賜ふ、天文十二年龍穏寺第七世僧良筠が書し縁起を閲るに、當社は昔藤原季綱と云人左遷せられ、此越生郷に幽棲して、一日阿諏訪山に遊獵せしに、其氏の神はるばると慕ひ来り、秩父郡高山の峯に光をはなつ、これ則毛呂明神なり、季綱謹で拝し、やがて一體を二所に祝ひ祀り、當所に祭れるを内裡明神と稱せり、今按に此縁起の原本には、毛呂の先祖季綱を季綱親王と記せり又當國へ配流せられうと記せしは共に誤なり、季綱は毛呂太郎が名乗にて、【東鑑】にも此人のことをのす、殊に毛呂は藤原姓にて、皇別の家にも非ず、又當國は古より配流の例なし、縁起の妄なること知べし、されど内裡と稱することは舊きことにや、堂山村最勝寺の什物大般若經の櫃の裏書に、越生郷内裡宮常住也明應三年とあり、然るを慶安年中御朱印を賜んことを願し時、内裡の唱大内にふるる故書替しと云、又云此社は延暦元年村内願龍山と云所に鎮座せしを、永禄元年上田能登守今の地へ移せしと云、此説の如きは前の縁起と異なり例祭九月廿八日・廿九日の兩日、流鏑馬を修行す、此流鏑馬式の来由尋るに、近戸権現別當最勝寺古當社の別當職を兼し頃、當社の寶物大般若經を所望し、神職及氏子に勧て最勝寺に送りし時、彼近戸権現の舊例に行はるる流鏑馬式と易しより、以来當社にて行ふと云ふ、されど今も社内に般若經二三巻あるは、そのそのかも最勝寺へ移せし時、たまたま取道せしならん、此社今は今市・大谷・黒岩及び當村の鎮守となせり。
攝社。太神宮、八幡社。
末社。八百萬神社、稲荷社、天神社。
神職石井肥前。京都吉田家の配下なり。(新編武蔵風土記稿より)

「埼玉の神社」による春日神社の由緒

春日神社<越生町西和田三一七(西和田字大利)>
西和田は秩父山地の東麓、岩殿丘陵にある。
『風土記稿』に「春日社慶安二年社領五石の御朱印を賜ふ、天文十二年竜穏寺第七世僧良筠が書し縁起を閲るに、当社は昔藤原季綱と云人左遷せられ、此越生郷に幽棲して、一日阿諏訪山に遊猟せしに、其氏の神はるばると慕ひ来り、秩父郡高山の峯に光をはなつ、これ即毛呂明神なり、季綱謹で拝し、やがて一体を二所に祝ひ祀り、当所に祭れるを内裡明神と称せり」とある。
所蔵文書は「延暦元壬戌年内裏山と称する嶺獅子岩の背後にありて大神宮八幡大菩薩春日大明神を合せ祀りて大理大明神と称せしなり、其後大同元年大将軍坂上田村麿東征の時崇敬ありて今の地に奉遷せられ、又其後衰頽せしを以て永禄元戌午年松山城主上田能登守再営せられ玆に旧観に復し同二年二月二十六日時世を憚り社号を春日大明神と改称す」と記す。
また『風土記稿』は「内裡と称することは旧きことにや、堂山村最勝寺の什物大船若経の櫃の裏書きに、越生郷内裡宮常什也明応三年とあり」と載せ、さらに「例祭九月廿八日・廿九日の両日、流鏑馬を修行す、此流鏑馬式の来由を尋るに、近戸権現別当最勝寺古当社の別当職を兼し頃、当社の宝物大般若経を所望し、神職及氏子に請て最勝寺に送りし時、彼近戸権現の旧例に行わるる流鏑馬式と易しより、以来当社にて行ふと云ふ」とある。
社蔵文書「寛政十午年四月 寺社奉行宛 『郷名ヲ被掠取神職ニ差障候出入』訴訟人石井越前・相手上野村森村大和」があり、神職間の配札の争いを記したもので、この内に「私持の春日大明神の儀は往古より越生郷の内和田村に鎮座有之越生拾六郷の惣鎮守にて毎年九月廿八日九日両日右拾六郷の者参詣致来越生郷の内大谷村和田村今市村右三ケ村にてやぶさめ神事祭礼致来即郷中の寺院修験春日明神拝殿において御祈祷相勤来候て越生郷惣鎮守に相違無御座候」の文が見える。
当社には朱印状九通が残り、慶安二年一一月一七日の家光から万延元年九月一一日家茂まで「武蔵國高麗郡和田村春日大明神社領同所之内五石事任先規寄付之訖全可収納并社中山林竹木諸役等免除如有来永不可有相達者也」とされていた。
三間社流造りの本殿は「天保十一年越生惣鎮守奉加帳」があり、この折の再建と思われる。内陣には懸仏三面を安置する。
明治五年に村社となり、同四〇年には仲ノ谷の住吉社、房ノ前の神明社、富士塚の浅間社、古武ノ山の天神社、大明神の稲荷社、堀ノ内の八幡社を本殿に合祀する。(「埼玉の神社」より)

境内掲示による春日神社の由緒

延暦元年(七八二年)創建
内裏山獅子岩の傍に祭祀されたるを征夷大将軍坂上田村麻呂東夷征伐の際、現在の地に遷し宮殿を築いて内裏大明神を祀る。平将門が当地に内裏を置いたとされその後、延喜年中常陸大據、平国香(将門の伯父)が修繕、松山城々主上田能登守の再建を経て、寛政十年四月内裏大明神春日大明神改め、春日神社、越生十六郷総鎮守と定む。慶安三年将軍徳川家光より社領を賜う。明治四年上地令によりこれを奉遷。
猶、平安末期藤原季綱公、越生郷に居住し、阿諏訪山に遊猟せし時氏神秩父郡高山の峰に光を放ち、季綱公之を謹み拝し当社に祭ると伝承されている。
内裏と称するは越生郷内、内裏宮常住、明応三年と有る、内裏の井□氏社家石井氏の家号と同じくするもの也。(境内掲示より)


春日神社所蔵の文化財

  • 春日神社の流鏑馬(町指定文化財)

春日神社の流鏑馬

毎年十月九日のハツグンチ(初九日)に、大谷から「一の馬」、西和田から「二の馬」が出て、この直線道路に設けた馬場を騎馬が駆け抜けていた。幕末のころまでは、今市村(現大字越生)の「三の馬」も参加していた。
当地の流鏑馬は、坂上田村麻呂が東征の折に奉納したのが起源で、長く途絶えていたのを戦国時代に松山城主の山田能登守が再興したと伝えられている。また、堂山の最勝寺に伝来していた流鏑馬と、春日神社が所蔵していた大般若経を交換しとの伝承もある。
大谷と西和田、各々数十軒で組織するマトウ組(的組=流鏑馬組)が永く伝統を継承していた。昭和三十四年(一九五九)を最後に大谷が退いてからは西和田だけで続けられていたが、昭和四十一年に台風で中止され、以来中断されたままになっている。(越生町教育委員会掲示より)

春日神社の周辺図


参考資料

  • 「新編武蔵風土記稿」
  • 「埼玉の神社」(埼玉県神社庁)