最勝寺。入間郡越生町堂山にある真言宗智山派寺院

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最勝寺。武蔵越生七福神の福禄寿

最勝寺の概要

真言宗智山派寺院の最勝寺は、青龍山と号します。最勝寺の創建年代等は不詳ながら、源頼朝の命により兒玉氏雲太夫が奉行となり大御堂が小名堀内に創建された際に、大御堂の東側に東福寺が西側に西照寺(当寺)が建立されたといいます。弘治年中に法印賴榮が法恩寺の法流を継承、慶安二年には釋迦堂(大御堂)領として7石8斗の御朱印状を拝領したといいます。入比板東三十三所観音霊場27番、武蔵越生七福神の福禄寿、武州八十八所霊場15番です。

最勝寺本堂
最勝寺の概要
山号 青龍山
院号 -
寺号 最勝寺
本尊 十一面觀音像
住所 入間郡越生町堂山287
宗派 真言宗智山派
葬儀・墓地 -
備考 -



最勝寺の縁起

最勝寺の創建年代等は不詳ながら、源頼朝の命により兒玉氏雲太夫が奉行となり大御堂が小名堀内に創建された際に、大御堂の東側に東福寺が西側に西照寺(当寺)が建立されたといいます。弘治年中に法印賴榮が法恩寺の法流を継承、慶安2年(1649)には釋迦堂(大御堂)領として7石8斗の御朱印状を拝領したといいます。

新編武蔵風土記稿による最勝寺の縁起

(堂山村)最勝寺
青龍山と號す、新義眞言宗、今市村法恩寺の末山なり、往古は天台宗にて西照寺と書たるよし、其故は下に出せる大御堂と云もの、其頃小名堀内にありて、そこより西方に當るを以西照寺と云ひ、夫より東にあたる寺を東福寺と稱す、則今の東福寺是なり、西寺を最勝と改めし所以はしらず、又或は當寺を指て上の寺と呼び、東福寺を下の寺と唱へしと云、客殿の軒に掛し鐘に、元禄元年法恩寺主温が銘あり、其略に云、越生郷堂山大御堂最勝寺者、能仁寂黙寶殿、瑜伽上乗道場也、壘時藉録天文年中罹鬱攸之變已爲烏有有矣、只傳言開基者建久癸丑年、右大将賴朝公来日、于茲有感神異創建大伽藍、則使兒玉氏雲太夫、奉行之寄附瞍(めしい)田若干云々、弘治年中法印賴榮、稟承法脈於法恩寺之廣慶阿闍梨、其後又賴圓上人相續重受慶秀和尚、于今傳燈熾然也云々、開基のあらましはしるべし、また法恩寺の年譜録によりても、古く創立ありしこと知らる、當時は大伽藍の別當寺なりしにや、既に慶安二年たまはりし御朱印の文にも釋迦堂領七石八斗としるされしにてもしらる、この釋迦はすなはち大御堂に安置する本尊なり、本尊は十一面觀音の銅像なり。
寺寶
大般若經四箱。この經はむかし和田村の春日社にありしを、故ありて當寺にうつせりといふ、經文の奥書をよび箱の圖を上に記す、(奥書及び圖省略)
これ逸年號にして、年代しれざれば姑く此に出す、此外經文の奥書に、武州比企郡釜形の郷、八幡宮常住於平澤寺、圓仙房書と而已記せるあり、又足利庄般若禅寺常住、住持勧縁比丘道班と、えりたる印を押せる、板本の經もありと云、(板本の經圖省略)
大御堂
境内に入て左の方にあり、三間四方中山中納言愛親卿の筆にて、大御堂の三字を扁す、本尊釋迦は楠をもて彫刻せし長二尺許なる坐像なり、側に同木にて作れる彌陀、及四天王の像あり、此彌陀の臺座の裏に、奉再興新御堂阿彌陀本尊云々、延徳四年□子卯月日本願権僧都□□定道とあり、其圖は上に出せり、此堂は前の鐘銘にいへる、兒玉雲太夫が奉行して建立せし處なり、其地は村の東方なる堀ノ内にありしに、後戦争の事ありて久く破壊したりしを、再興の時ここに引移せしと云、現に文安三年吾那左衛門尉建光の寄附状にも、吾那堀ノ内釋迦堂とあり、其文に、
武蔵國入西郡越生郷、恒弘名之内田代村、菊万在家土貢八百文、同所中嶋在家田畠土貢八百文、合壹貫六百文所、依爲吾那堀ノ内釋迦堂、爲息庵主建立、爲道乗菩提釋迦江奉永代寄進所實也、此上者於子孫中於致異亂妨輩者、憲光跡を不可知行候、仍爲後證永代之寄進状如件、
文安三年三月九日。
稲荷社。(新編武蔵風土記稿より)


最勝寺の周辺図