大聖寺。比企郡小川町下里にある天台宗寺院

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大聖寺。国指定重要文化財の石造法華経供養塔・板碑

大聖寺の概要

天台宗寺院の大聖寺は、石青山威徳院と号します。大聖寺は、当地の土豪平貞義(源貞義)が開基となり、希融法印が開山、開山年は不詳ながら、残されている六角塔婆(国指定重要文化財)に康永三年(1344)の銘が残され、この六角塔婆は平貞義(源貞義)の主君北陸使君禅儀の十三回忌法要に際して立てられていることから、建武新政期前後の創建と推定されています。境内観音堂の如意輪観音像は源頼政の奥方から信仰を受けたと伝えられる観音像で、江戸期には「子育ての観音様」として信仰を集め、最盛期には1000近い講が結成されていたいいます。武蔵国十三仏霊場の9番勢至菩薩の寺です。

大聖寺本堂
大聖寺の概要
山号 石青山
院号 威徳院
寺号 大聖寺
本尊 如意輪観音像
住所 比企郡小川町下里1857
宗派 天台宗
葬儀・墓地 -
備考 -



大聖寺の縁起

大聖寺は、当地の土豪平貞義(源貞義)が開基となり、希融法印が開山、開山年は不詳ながら、残されている六角塔婆(国指定重要文化財)に康永三年(1344)の銘が残され、この六角塔婆は平貞義(源貞義)の主君北陸使君禅儀の十三回忌法要に際して立てられていることから、建武新政期前後の創建と推定されています。境内観音堂の如意輪観音像は源頼政の奥方から信仰を受けたと伝えられる観音像で、京都から秩父札所へ移す際に当地で移動できなくなったことから当地で祀ることになったと伝えられ、江戸期には「子育ての観音様」として信仰を集め、最盛期には1000近い講(1組10人の講)が結成されていたいいます。

境内掲示による大聖寺の縁起

大聖寺は、天台宗に属し暦応三年(一三四〇)に、この地域の土豪と思われる貞義が希融法印を招請して開創したと伝えられ、本尊は如意輪観音である。
境内にある法華院には、国指定重要文化財の石像法華供養塔(六角石塔婆)が保存されている。六枚の緑泥片岩を組み合わせたもので、塔の高さは一・三六メートルあり、康永三年(一三四四)の造立ときざまれている。
大聖寺は、「下里観音」あるいは、「子育観音」という名前で、一般に親しまれており、四月二十日、十月二十日の縁日には、たくさんの参詣者が訪れる。また江戸時代末期頃から戦前までは、数百組の観音講(女人講)があり、にぎわいをみせたそうである。
本堂奥の高台にある観音堂は、江戸末期の建物で天井の絵は、小川町中爪の細井竹翁の作と伝えられ、当時のこの付近の文化をしのばせるものである。(埼玉県・小川町掲示より)

新編武蔵風土記稿による大聖寺の縁起

(下里村)
大聖寺
天台宗、男衾郡塚田村普光寺末、石青山威徳院と號す、本尊如意輪觀音を安ぜり、寺傳に開山は希融、開基は平貞義なりと云、共に卒年を傳へず、今按に境内山腹に建る康永年中の六面塔に、希融貞義の名彫たれば、其年代推て知らる、六面の圖右に出す、
天神社
觀音堂。如意輪觀音を安置す、定朝の作と云、
鐘樓。寶暦十二年鑄造の鐘を掛く、(新編武蔵風土記稿より)

「小川町の歴史別編民俗編」による大聖寺の縁起

大聖寺(下里一八五七)
「下里の観音様」として知られる大聖寺は、石青山威徳院と号し、天台宗に属する寺院である。江戸時代は、男衾郡塚田村(現寄居町)普光寺の末であった。本尊は如意輪観音である。開山は希融、開基は土豪の平貞義と伝え、境内にある康永三年(一三四四)銘の六角塔婆(国指定重要文化財)には、希融や貞義の名が刻まれている。この銘年紀から、大聖寺の草創は、西暦一三〇〇年前後のことと推測される。その後、衰微した時期があったが、寛政四年(一七九二) に賢恵法師が中興し、現在に至っているという。なお、中興の時期と僧について、大塚仲太郎編の『小川町史』は、寛永十一年(一六三四)智慶法師によるとしている。
寺内には、定朝の作と伝えられる如意輪観音像(寺の本尊とは別のもの)を祀る観音堂があり、「子育ての観音様」として婦人の信仰が厚い。この観音像は、元は京都にあって源頼政(一一〇四-八〇)の奥方の尊信が厚かったという。その後、この像を秩父の札所に移すことになり、途中で休憩のため下里の金山沢に立ち寄ったところ、像を載せた車がそこから動かなくなった。そこで、これは観音様がこの地にとどまりたいのだということで、下里に堂を建立してこの像を祀るようになったと伝えられている。現在も、その御利益にあやかろうと、四月と十月の二十日(現在はそれに近い日曜日)に行われる大祭には各地から多くの参詣者が訪れる。
現在の観音堂は、江戸時代の中期から末期にかけて三代の住職が約五〇年の歳月を費やして再建したもので、それまでは小さな堂であったという。この観音堂を対象とした女人講は、一〇人一組で講杜を作り、交代で春秋の大祭に代参するもので、最盛期には比企郡内はもとより秩父郡や大里郡にかけて一〇〇〇近い講社があったが、昭和三十年ごろから個人での参詣が増えたことに伴って漸減し、現在は比企郡内を中心に一〇〇ほどの講社が存続している。また、明治のころまでは直接参詣できない信者への出開帳も行っていた。(「小川町の歴史別編民俗編」より)


大聖寺所蔵の文化財

  • 石造法華経供養塔・板碑(国指定重要文化財)

石造法華経供養塔・板碑

この供養塔は、もと本堂裏の斜面中腹のわずかな平坦地にありましたが、風化が進んできたので、昭和五十四年に保存庫(法華院)を建設して移設しました。
供養塔は、台座上に長方形の六枚の緑泥片岩(下里石)を六角筒形に組み立て、その上に六角と八角形の大小二枚の笠石を乗せています。本来は笠石の上に宝珠が乗せられていたと考えられますが、現在は欠損しています。
六角の各面には、蓮台上にキリーク(阿弥陀)の種子と、「開山希融」とはじめ五十一名の名前が刻まれています。正面には「開山希融平貞義 祐仙 奉読誦法華経一千部供養・・・」とあり、その他の面には、「・・・康永三年甲申(一三四四)三月十七日 一結之諸衆 敬白」の銘文が読みとれます。
昭和五十四年に追加指定された板碑によると、この六角塔婆の供養塔は、鎌倉幕府滅亡に際し亡くなった主君・北陸使君禅儀の十三回忌に当り、大聖寺の開山希融や開基の平(源)貞義らが法華経一千部を読誦し、供養した歳に建てたと考えられます。銘文中の「平貞義」の平については源を改刻した可能性が高いようです。(埼玉県教育委員会・小川町教育委員会・大聖寺掲示より)

大聖寺の周辺図


参考資料

  • 新編武蔵風土記稿
  • 「小川町の歴史別編民俗編」