大塚八幡神社。比企郡小川町大塚の神社

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大塚八幡神社。鎌倉幕府最後の将軍守邦親王が勧請

大塚八幡神社の概要

大塚八幡神社は、比企郡小川町大塚にある神社です。大塚八幡神社は、鎌倉幕府最後の将軍守邦親王(梅皇子)が、幕府滅亡に際して慈光寺へ、更に猿尾氏を頼って当地梅香岡へ遁れて仮寓、神明社が祀られていた当地に鶴岡八幡宮を勧請して元弘3年(1333)に創建したといいます。守邦親王の子孫と伝えられる修験梅岑寺が代々当社の別当を務め、江戸期には幕府より社領10石2斗の御朱印状を慶安2年(1649)に受領、明治維新後の社格制定に際して郷社に列格していました。

大塚八幡神社
大塚八幡神社の概要
社号 八幡神社
祭神 誉田別命、保食命、大山咋命、天照皇大神、豊受大神
相殿 -
境内社 産泰神社、天手長男神社、琴平神社、秋葉神社、寅稲荷神社、天神社、疱瘡神社、大山祇神社、高良神社、高龗神社、稲荷神社、新羅神社、愛宕神社
祭日 春祭り3月10日、例大祭10月19日、秋祭り11月23日
住所 比企郡小川町大塚427
備考 -



大塚八幡神社の由緒

大塚八幡神社は、鎌倉幕府最後の将軍守邦親王(梅皇子)が、幕府滅亡に際して慈光寺へ、更に猿尾氏を頼って当地梅香岡へ遁れて仮寓、神明社が祀られていた当地に鶴岡八幡宮を勧請して元弘3年(1333)に創建したといいます。鎌倉幕府は元弘3年(1333)5月に滅亡、守邦親王は8月に鎌倉で薨去していることから、遁れ来たのはその一子梅麿ではないかともいわれ、旧別当寺梅岑寺では、梅麿が9月に誕生したのを機に鶴岡八幡宮を勧請したと伝えています。守邦親王の子孫と伝えられる修験梅岑寺が代々当社の別当を務め、江戸期には幕府より社領10石2斗の御朱印状を慶安2年(1649)に受領、明治維新後の社格制定に際して郷社に列格していました。なお、当地は日本武尊が東征に際して陣を敷いたと伝えられ、当初神明社が祀られ、文治3年(1187)には源頼朝(の命により)が山王杜を奉祀、文永年間(1264-1275)には村鎮守が神明社から八幡社に替わったと社蔵文書に残されています。

境内掲示による大塚八幡神社の由緒

八幡神社は、元弘三年(一三三三)に、創建されたと伝えられている。
鎌倉幕府の滅亡に際し、将軍であった守邦親王は、慈光寺山麓の古寺の里に亡命し土豪猿尾氏に迎えられ、この梅香岡に仮寓したという言伝えがある。
守邦親王が鎮守神明社の境内に勧請したのが、八幡神社のはじまりであるといわれている。
慶安二年(一六四九)、三代将軍家光より社領十石二斗余を賜って以来歴代将軍から、御朱印を受けていたと伝えられている。
守邦親王が生前、小字的場で馬術を練習した故事にならって境内でかつて流鏑馬や馬くらべが行われていた。
八幡神社の大けやきは、町の天然記念物に指定されている名木で、この木が下から水を吸い上げるため、この地の井戸はどんな日照りでも水が涸れることがないと言われている。(埼玉県・小川町掲示より)

新編武蔵風土記稿による大塚八幡神社の由緒

(大塚村)
八幡社
當社は建治二年(或いは建武元年と云、大梅寺の條に梅皇子永仁三年薨すと見ゆれば、建治ならざること明けし、)後深草院第三の皇子、梅皇子の靈を祀れり、本地は彌陀にて、圓徑五寸許なる古銅の華鬘の中央に彫れり、此華鬘は則彼皇子の守佛なりしと云、一説に梅皇子は守邦親王の庶子なりしと、いづれもうけ難き説なり、猶下に載る大梅寺の條合せ見るべし、慶安二年社領十石餘の御朱印を賜ふ、例祭は九月十九日なり、
別當梅岑寺
本山派修験、男衾郡板井村長命寺の配下なり、梅香山と號す、昔は神主なりしが、永昌と云ものゝ時より修驗となれり、永昌は天正十九年八月十三日寂せり、本尊不動を安置す、(新編武蔵風土記稿より)

「小川町の歴史別編民俗編」による大塚八幡神社の由緒

八幡神社(大塚四二八)
増尾・角山・飯田・大塚の四か村と笠原の一部の地域は、中世の麻師宇郷に相当するといわれている。大塚の八幡神社は、この四か村の中央に位置する台地上に鎮座しており、古来、広範囲の人々の崇敬を受けてきた故を以て、戦前は町内で唯一、郷社に列していた。
境内のある台地は、かつて日本武尊が東征の折りに布陣したところといわれ、それにちなんで古くから神明杜が祀られていた。その後、文治三年(一一八七)に源頼朝が山王杜(現日枝神社)を、さらに元亨三年(一三三三)にこの地に隠遁していた鎌倉幕府最後の将軍となった守邦親王が鎌倉の鶴ケ岡八幡宮を境内に勧請し、その結果、八幡社が主体となって祀られるようになったと伝えられる。
しかし、社蔵の「応永文書」に、文永のころ(一二六四-七五)に八幡宮の方が村の鎮守になったため、本社であった神明社は摂社となった旨の記載があることから考えると、元亨三年以前から何らかの形で八幡社が祀られていたことがうかがえる。麻師宇郷を領していた豪族の猿尾(ましお)氏は源義経の臣であったため、源氏の氏神である八幡杜を自らの所領に祀っていたことは想像に難くない。
また、社伝によれば、守邦親王は鎌倉幕府の滅亡後、一旦京都に上ったのちに源氏と縁の深い都幾川村の慈光寺を頼ってこの地に逃れ、猿尾氏に迎えられてからは梅皇子と名乗って再挙を図ったが志を遂げられないまま没したので、その霊を自ら勧請した鶴ケ岡八幡宮に配祀したという。「新編武蔵風土記稿』に「梅皇子の霊を祀る」と記されているのは、そのことを言ったものと思われる。
このほかにも、八幡神社の行事や信仰には守邦親王にちなむものが多い。例大祭は親王の命日である九月十九日を祭日とし、生前に親王が的場で馬術の練習に励んでいたことから流鏑馬が行われていた。また、この日授与する矢除守は、守邦親王の父である久明親王が将軍となって鎌倉に下向した際に母君から授かったお守りに倣ったものであるという。なお、神職の片岡家は、守邦親王の子孫とされ、江戸時代には梅香山梅岑寺と号する本山派修験の寺であった。
矢除守や、流鏑馬の神馬に陪従して無病息災を願う子育矢(陪従矢)によって、八幡神社は子育ての神として信仰が厚いが、「子」が「蚕」に通じることから、養蚕が盛んなころには養蚕の神としても信仰され、比企郡下はもとより入間・大里・児玉・秩父の各郡や群馬県に多くの崇敬者があった。また、同社は縁結びの神としても信仰されている。それは、かつて境内の芭蕉句碑の脇には、愛染椿と呼ばれる椿の大木があり、その葉を取って白紙に包み、拝殿前の石段で潰して葉が藍色に染まると相思の人と結ぼれるとされてきたためである。この椿は枯死したが、現在は二代目が植樹されている。(「小川町の歴史別編民俗編」より)


「埼玉の神社」による大塚八幡神社の由緒

八幡神社<小川町大塚四二八(大塚字鳩ケ峯)>
大塚の地名は、文字通り大きな塚があることに由来する。当地は行政上の要地であったとされ、万葉集の注釈書である『仙覚抄』の奥書に、文永六年(一二六九)五月二日に記したとして「於武蔵国比企郡北方麻師宇郷政所註之」とみえる。この麻師宇郷とは増尾・角山・飯田・大塚の四か村と笠原の一部を含む地域に比定されている。四か村の中央の台地上に鎮座するのが当社で、付近の八幡ケ岡に政所が置かれていた。鎌倉五大堂の一つである明王院所蔵の暦応四年(一三四一)四月八日発布の制札には「大塚郷」の郷名がみえ、そのころには大塚が分郷して独立郷になっていたことがわかる。
当社の創建は、社伝によれば守邦親王が鎌倉幕府の滅亡により当地に逃れ、源頼朝以来縁の深い慈光寺を頼り、末寺の古寺に隠棲した。そして源氏系の当地の豪族・猿尾氏に迎えられ、梅香岡に寓して梅皇子と称し、神明社の境内に鶴岡八幡宮を勧請して再挙を図った。しかし、一子梅麿が夭逝し親王も薨じたため幕府再興を果たせずに終わったという。社蔵の「応永文書」にも、当社が元来は神明社であったことが記され、後に文永のころ(一二六四-七五)に、八幡宮の方が村の鎮守となったので、本社の神明社が摂社となった旨が伝えられている。なお、神明社の由緒には、当地は倭武尊が東征した時の布陣の跡地で、それにより神明宮を勧請したのが創始であると伝え、文治三年(一一八七)に至り、頼朝が山王社を更に勧請したこと、そして正慶年中(一三三二-三四)に梅皇子が参詣して鶴岡八幡宮を境内に勧請したとの伝えが残されている。
守邦親王は、実際には元弘三年(一三三三)五月二十二日の幕府滅亡の日に将軍職を退任し、出家したが、その年の八月十六日に三十三歳の若さで鎌倉で薨じている(『大日本史料』六-一)。したがって、伝承とは異なるのであるが、しかし、その伝承を生むような背景があったのではないかと考えられる。参考までに他の所伝を引いてみたい。
当社別当の梅岑寺の系図には「建武元年(一三三四)梅麿誕生 於此増尾郷建立一社而勧請鶴岡八幡宮為氏神于時九月十九日也則大塚村八幡宮是也」と記され、梅麿が誕生したのを機に九月十九日に氏神である鶴岡八幡宮を勧請したとの異伝が残っている。また、梅皇子は貞治二年(一三六三)に薨じて「清浄院二品親王嘉慶法師」という法号を奉られ、割注に「奉葬八幡宮正面」と、皇子を当社前方の穴八幡古墳に葬ったことを記している。
『風土記稿』八幡社の項には、「当社は建治二年(一二七六)[或は建武元年と云、大梅寺の伝に梅皇子永仁三年(一二九五)薨ずと見ゆれば、建治ならざること明けし、]後深草院第三の皇子、梅皇子の霊を祀れり、(中略)一説に梅皇子は守邦親王の庶子なりしといずれもうけ難き説なり」と、親王の薨年はもちろん、梅皇子を親王とすることにも疑問を呈している。そして大梅寺の項には「相伝ふ当寺は建治二年後深草院第三皇子、梅皇子の建立し玉ふ所なり、彼皇子は正元元年(一二五九)故有て当所へ下向し、永仁三年九月十九日薨じ玉ひしを、当寺に葬りて大梅寺殿二品親王賀慶法師と諡し奉るといと覚つかなき説なれど、姑く伝のまゝを記せり」と、こちらも疑いつつ所伝を記したとしている。
梅皇子が奉葬されたとする穴八幡古墳が、地名の由来である大塚のことで、七世紀初頭から中葉にかけての築造であるが、鎌倉から室町にかけて重葬が行われており、骨壷が納められていた。石槨入口の左側石面に「建治二(四)年戊寅二月彼岸日」と年紀が刻まれているから建治初年に葬られた有力者がいたことになる。また、梅皇子を守邦親王の庶子とする説から推して親王の御子を当地の源氏系の人々が擁護し、それがこうした貴種流離譚と結び付いたことも考えられる。
明治四十一年に、日枝神社・稲荷神社二社(字中城・字春日井戸)と神明社を合祀している。この神明社が「応永文書」にみえる境内社として移されていた社である。この合祀によって祭神は、誉田別命・保食命・大山咋神・天照皇大神・豊受大神となった。神体は『風土記稿』に円径五寸ほどの古銅鏡で中央に皇子の守仏と伝える華鬘が彫ってあると記され、『郡村誌』によれば正保二年(一六四五)に掘り出したと伝えられている。
祀職は、守邦親王の子孫が梅岑寺法印となり、当社の別当として永く務め、現宮司の片岡正二は親王の二十七代目に当たると伝える。(「埼玉の神社」より)

大塚八幡神社の周辺図


参考資料

  • 「新編武蔵風土記稿」
  • 「小川町の歴史別編民俗編」
  • 「埼玉の神社」(埼玉県神社庁)