八和田神社。比企郡小川町奈良梨の神社

猫の足あとによる埼玉県寺社案内

八和田神社。千野(茅野)備後・大沢氏らが勧請した諏訪社

八和田神社の概要

八和田神社は、比企郡小川町奈良梨にある神社です。八和田神社は、諏訪の領主諏訪頼重が天文11年(1542)に武田氏に滅ぼされ、従弟諏訪頼忠が千野(茅野)備後・大沢氏を伴って流浪、諏訪頼忠が天文16年(1547)に諏訪大社大祝職に就くまでの間に当地に来て諏訪大社を勧請したのではないかといいます。本能寺の変後の天正10年(1582)に諏訪頼忠は旧領を回復、頼忠の長子頼水は当地周辺に1万2千石を有する領主となったことから改めて諏訪大社を「諏訪神社奉祀遺跡」地に勧請したとされます。、江戸期には諏訪社と称して奈良梨の鎮守として当地に祀られていました。明治40年上横田・下横田・奈良梨・伊勢根・高谷の11社を当社に合祀、当時の村名に因んで八和田神社と改称しています。当社所蔵の鰐口は小川町有形文化財に指定されています。

八和田神社
八和田神社の概要
社号 八和田神社
祭神 建御名方命
相殿 -
境内社 招魂社、住吉社、菅原社、厳島社
祭日 例大祭10月25・26日
住所 比企郡小川町奈良梨229-4
備考 -



八和田神社の由緒

八和田神社は、諏訪の領主諏訪頼重が天文11年(1542)に武田氏に滅ぼされ、従弟諏訪頼忠が千野(茅野)備後・大沢氏(後の神主家)を伴って流浪、諏訪頼忠が天文16年(1547)に諏訪大社大祝職に就くまでの間に当地に来て諏訪大社を勧請したのではないかと推定され、弘治3年(1557)には新井佐渡守が鰐口を寄進しています。本能寺の変後の天正10年(1582)に諏訪頼忠は旧領を回復、頼忠の長子頼水は当地周辺に1万2千石を有する領主となったことから改めて諏訪大社を諏訪神社奉祀遺跡」地に勧請したとされます。往時には一鳥居が菅谷、二鳥居が中爪にあったという大社でしたが、江戸期には諏訪社と称して奈良梨の鎮守として当地に祀られていました。明治40年上横田の稲荷神社、下横田の八宮神社・神明社、伊勢根の神明社・雷電神社、高谷の舳取神社・八幡神社(二社)・神明神社(二社)・上浅間神社の11社を当社に合祀、当時の村名に因んで八和田神社と改称しています。

新編武蔵風土記稿による八和田神社の由緒

(奈良梨村)
諏訪社
村の鎮守なり、相傳ふ、當社は何の頃にや知野鈴木など氏とせるもの、信州より来りて勧請せしと云、思ふに村民仙右衛門が先祖は、熊野より出で鈴木兵庫助と號し、伊豆國に下り、延徳年中より北條家の旗下に屬せり、其後子孫世々當所に住したれば、恐くは此人の子孫など勧請せしなるべし、されど系圖に載る處、信州より移りしことは見えず、古は此邊十五ヶ村の鎮守と崇めし大社にて、一の鳥居は須賀谷村にありて、二の鳥居は中爪村に立りし由いへど、其村々にてしか云傳ふることなければ覺束なし、社内に延徳及弘治の銘を彫たる鰐口を掛たり、其圖上に出す、
神楽殿
随身門
末社。春日社、辨財天社
神主大澤信濃。入間郡塚越村住吉社神主、勝雅楽の配下なり、寛文の頃より神職を勤めりと云、裏に武州入西郡高坂郷、醫王山常安禅寺住持比丘大成叟永順置之、延徳三辛亥年四月初八日と彫れり、此銘文によれば、始は常安寺のものなりしを、弘治三年當社へ移して再銘を彫たるなるべし、又按に郡内元宿は高坂郷と昔は一村にて、後いつの頃か分れて二村となりしよし、今元宿に常安寺あれば、當時かの地にありしこと明けし、されど其所以はしらず、且入西郡と彫たるは、彼地入西に近き邊なれば、訛りしものなるべし、猶元宿の條合せみるべし、(新編武蔵風土記稿より)

「小川町の歴史別編民俗編」による八和田神社の由緒

八和田神社(奈良梨九二九)
八和田神社は、現在の場所に鎮座し、奈良梨の鎮守として祀られていた諏訪神社に、明治四十年に近隣諸村の神社一一社を合祀した際、社号を八和田神社と改めたものである。この時合祀された一一社は、上横田の稲荷神社、下横田の八宮神社と神明社、伊勢根の神明社と雷電神社、高谷の舳取神社・八幡神社(二社)・神明神社(二社)・上浅間神社で、そのうち五社は村社の社格を持つものであった。その結果、八和田神社は奈良梨・高谷・上横田・下横田・伊勢根の五大字の総鎮守として祀られるようになった。
こうした神社の統合は、政府の合祀政策に沿って行われたものであるが、諏訪神社に合祀されたのは、同社がかつては近隣一五か村の総鎮守として崇められ、須賀谷村(現嵐山町菅谷)に一の鳥居、中爪に二の鳥居があるほどの大社であったといわれていたことによると思われる。諏訪神社の創建については、「信州(現長野県)諏訪から来た落人が、諏訪神社の神体を背負って奈良梨まで来たところで不思議にも足が動かなくなったので、これはこの地に鎮座せよとの神意によるものとして祀った社である」との伝説がある。また、八和田神社の境内には大きな杉があるが、この杉には「信州から飛んできて、この地に根付いたもの」との言い伝えがあり、昔はこの木の皮をはがして、お守りとして売ったこともあるという。
一方、奈良梨の人々の間には、古くから「千野の諏訪、鈴木の春日」といい、千野氏が諏訪神社、鈴木氏が春日神社(現在は八和田神社の末社となっている)を勧請したとの伝えもある。『新編武蔵風土記稿』は、諏訪神社について「相伝ふ当社は何の頃にや、知野鈴木など氏とせるもの、信州より来りて勧請せしと云」と記しているが、これは、千野備後の娘が鈴木隼人佐重親に嫁いだことにより、両氏が姻戚関係にあったため、このように記したものであろう。
一方、天文十六年(一五四七)に諏訪大社の大祝職に就いた諏訪頼忠は、長子頼水が武蔵国奈良梨・羽生・蛭川の地一万二千石を賜ったことから奈良梨の天王原に陣屋を構えた。この時、信州一宮の諏訪神社を勧請したのが県指定文化財の「諏訪神社奉祀遺跡」である。この旧跡は、八和田神社から約五〇〇メートルというさほど遠くない距離にあり、例祭にはそこへ神輿が渡御していることから、千野氏の祀った諏訪神社と何らかの関係があったことが想像できる。(「小川町の歴史別編民俗編」より)

「埼玉の神社」による八和田神社の由緒

八和田神社<小川町奈良梨九二九(奈良梨字中)>
奈良梨は、中世鎌倉から上信越に通じた鎌倉街道上道が通った所で戦国期には伝馬宿駅として栄えた。氏子の鈴木家には天正十年(一五八二)十二月十九日付の「北条家伝馬掟」が残されている。
当社は明治四十年に上横田・下横田・奈良梨・伊勢根・高谷の五つの大字内にあった一一社を奈良梨の諏訪神社に合祀し、当時の村名を採って社名を八和田神社と改めて成立した。
この合祀の中心となった諏訪神社の由来について『風土記稿』は次のように載せている。
相伝ふ当社は何の頃にや知野鈴木など氏とせるもの、信州より来りて勧請せしと云、思ふに村民仙右衛門が先祖は、熊野より出で鈴木兵庫助と号し、伊豆国に下り、延徳年中(一四八九-九二)より北条家の旗下に属せり、其後子孫世々当所に住したれば、恐くは此人の子孫など勧請せしなるべし、されど系図に載る処、信州より移りしことは見えず、古は此辺十五ケ村の鎮守と崇めし大社にて、一の鳥居は須賀谷村にありて、二の鳥居は中爪村に立りし由いへど、其村々にてしか云伝ふることなければ覚束なし、社内に延徳及弘治の銘を彫たる鰐口を掛たり(以下略)
氏子の間では古くから「千野の諏訪、鈴木の春日」と言い習わし、千野氏が諏訪神社の勧請者で、鈴木氏は春日神社(現在、当社の末社)の勧請者であると伝えている。千野備後の娘が鈴木隼人佐重親の妻となった縁から、『風土記稿』では鈴木氏をも諏訪神社の勧請者としたものと考えられ、本来その勧請者は千野氏であろう。
千野氏については、同家所蔵の「由緒書」(年欠)に次のように記されている。
茅野備後
信濃国諏訪郡茅野村茅野信武孫茅野一統年代不知、武州比企郡奈良梨村に引越住居仕り候事其節大沢氏と備後両人彼の地江罷越、諏訪御社奉守護候由、然処大沢氏者当所之神職に相成茅野氏は郷士に而罷在候。
この茅野備後なる者は天正元年(一五七三)に没している。奈良梨から伊勢根にかけては「千野」姓の家が何軒かあり、元は「茅野」とその姓を称し、諏訪氏とともに信濃より移り住んだものと伝えられている。また、付近には諏訪大社系の神社が多数あり、一帯が信濃諏訪とのつながりの強かったことをうかがわせている。
諏訪氏とは、諏訪大社の祠官、諏訪の領主として、古代から明治初年に至る氏族で、戦国大名であった諏訪頼重が天文十一年(一五四二)に武田氏に滅ぼされ、その従弟頼忠は流浪したが、同十六年(一五四七)に諏訪大社の大祝職に就き、天正十年に本能寺の変後に旧臣千野氏らに擁立されて本領を回復した。更に小田原城攻略に功績のあったことから、長子頼水に武蔵国奈良梨・羽生・蛭川の地一万二千石を賜り、頼水と共に奈良梨の天王原の地に陣屋を構えた。この時に信州一の宮諏訪神社を勧請したが、わずか二年後に頼水は上野国惣社に転封となった。この諏訪社の跡は当社の西北五〇〇メートルほどの所で、現在「諏訪神社奉祀遺跡」として県指定文化財になっている。
恐らく、当社の創建は、諏訪氏が千野氏を伴って流浪したとされる天文十一年から同十六年にかけてのことであろう。
最も古い史料としては『風土記稿』にも載る鰐口がある。これには「奉諏訪大明神寄進施主者武州男衾郡鉢形錦入新井土佐守・弘治三年丁巳(一五五七)七月廿六日敬白」の刻銘がある。
また、当社の内陣に奉安されている木像三体の内の一体は、欠損が甚だしく確定はできないもののその外観から普賢菩薩と推測され、地内の天台宗普賢寺とのかかわりもうかがわせる。ちなみに、普賢寺は慶長八年(一六〇三)に草創した天台宗の寺院で、開基は鈴木隼人佐重親である。(「埼玉の神社」より)


八和田神社の由緒

  • 八和田神社の大スギ(町指定天然記念物)
  • 諏訪神社の鰐口(町指定文化財)

八和田神社の大スギ

大スギは、目通り五・六七メートル、樹高三〇メートルを測り、形状から「逆さスギ」とも呼ばれています。天正十八年(一五九〇)に奈良梨に入った諏訪頼水が、所領を定める際に信州諏訪(長野県)から投げたスギがこの地に刺さったという伝説があります。(小川町教育委員会掲示より)

諏訪神社の鰐口

鰐口は、直径三二・五センチメートル、厚さ一二・〇センチメートル。陰刻された銘文によると、延徳三年(一四九一)に高坂郷(東松山市)常安寺に奉納されたもので、弘治三年(一五五七)に鉢形綿入(寄居町西ノ入)の新井佐渡守によって諏訪神社に再寄進されました。地面には『薬師経』を出典とする偈(詩句)が刻まれています。諏訪神社は明治四十年(一九〇七)に八和田神社に改称されました。(小川町教育委員会掲示より)

八和田神社の周辺図


参考資料

  • 「新編武蔵風土記稿」
  • 「小川町の歴史別編民俗編」
  • 「埼玉の神社」(埼玉県神社庁)