円能寺。三郷市彦沢にある真言宗豊山派寺院

猫の足あとによる埼玉県寺社案内

円能寺。田中修理が開基、三郷七福神の福禄寿

円能寺の概要

真言宗豊山派寺院の円能寺は、悲願山正蓮院と号します。円能寺は、当地を開拓した武田氏の遺臣田中修理法名盛徳院證阿道圓居士(寛永7年1630年卒)が開基となり、祐長(正保2年1645年寂)が開山となり創建したといいます。三郷七福神(彦成めぐり)の福禄寿、西新井組中川通四箇領八十八箇所43番です。

円能寺
円能寺の概要
山号 悲願山
院号 正蓮院
寺号 円能寺
本尊 不動明王像
住所 三郷市彦沢1-71-1
宗派 真言宗豊山派
葬儀・墓地 -
備考 -



円能寺の縁起

円能寺は、当地を開拓した武田氏の遺臣田中修理法名盛徳院證阿道圓居士(寛永7年1630年卒)が開基となり、祐長(正保2年1645年寂)が開山となり創建したといいます。

新編武蔵風土記稿による円能寺の縁起

(彦澤村)圓能寺
新義真言宗、彦成村圓明院末、悲願山正蓮院と號す、開山祐長正保二年二月十二日寂す、開基田中修理法名盛徳院證阿道圓居士、寛永七年十二月二十九日死す、本尊不動。(新編武蔵風土記稿より)

埼玉県・三郷市掲示による円能寺の縁起

円能寺は、真言宗豊山派に属するお寺で、悲願山正連院円能寺と称している。本尊は不動明王である。
当院は、武田信玄の家臣の田中修理という人が、天正十年(一五八二年)の武田氏の滅亡後まもなくこの地に来たときに、携帯してきた不動明王立像を本尊として建立したと伝えられている。
ここのお堂は、明治六年に初めて学校制度が設けられたとき、培植学校という名称で、初代校舎として使用された。当時の生徒数は男子九十六、女子十六人、教師は3人であった。
境内には、かつて松の大木があって、明治維新のときの上野の戦いに破れた兵士が追われてきたとき、この松の木に登って身を隠したことにより、助かったという言い伝えがある。それからこの松を「忍者の松」とか「人助けの松」と称して、信仰の対象になっていたという。
本尊の不動明王立像は、室町時代の作と思われる寄木造りであり昭和五十二年に市指定文化財に指定された。(埼玉県・三郷市掲示より)


円能寺所蔵の文化財

  • 円能寺木造不動明王立像一躯(三郷市指定文化財)

円能寺木造不動明王立像一躯

円能寺は悲願山正蓮院円能寺と号し、開山は甲斐武田氏の家臣で田中富右衛門源修理といわれます。
この木造不動明王立像は甲斐武田氏が天正十年(一五八二)滅んだ後、家臣であった田中修理がこの彦沢の村に土着しその時携えてきた仏像で、これを本尊とし田中一族の菩提寺円能寺を建立したといわれます。材質はひのき材で寄木造り・像高八十センチメートル・作者不詳・室町時代末期の作とおもわれます。田中修理はその後彦沢の地を開拓し寛永七年(一六三〇)十二月二日七十八歳で没しました。
またこの寺には戊辰戦争にまつわる言い伝えが残されております。慶應四年(一八六六)五月十五日、上野の山で官軍と彰義隊のあいだに激しい戦いがあった。この時彰義隊の若い兵士二人が命からがら彦沢村まで逃れて寺の境内にあった老松の大木に登り身を隠して官軍の追っ手を逃れた。この様子を見ていた寺の住職は赤ん坊の頭ほどあるにぎり飯を与え命の大切さを諭したという。後に人々はこの松を「人助けの松」と呼び今も切り株として寺に残されています。(三郷市教育委員会掲示より)


円能寺の周辺図


参考資料

  • 新編武蔵風土記稿