彦沢香取神社。城主田中修理大夫義久が勧請
彦沢香取神社の概要
彦沢香取神社は、三郷市彦沢にある神社です。彦沢香取神社は、東葛飾郡田中城の城主だった田中修理大夫義久が元和年間(1615-24)下総国香取神宮を勧請して彦沢村の鎮守としたといいます。明治5年村社に列格、明治40年内沼の神明社を合祀しています。
社号 | 香取神社 |
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祭神 | 経津主之命 |
相殿 | 神明社 |
境内社 | 水神宮・天神社、稲荷社 |
祭日 | - |
住所 | 三郷市彦沢1-63 |
備考 | - |
彦沢香取神社の由緒
彦沢香取神社は、東葛飾郡田中城の城主だった田中修理大夫義久が元和年間(1615-24)下総国香取神宮を勧請して彦沢村の鎮守としたといいます。明治5年村社に列格、明治40年内沼の神明社を合祀しています。
新編武蔵風土記稿による彦沢香取神社の由緒
(彦澤村)
香取社
村の鎮守にて、稲荷を合殿とす、本地佛十一面観音を置、圓能寺持、下同じ
末社天神疱瘡神、水神。
神明社
當社別に除地あれど今は前の香取社地に立置り。
雷電廃社
元禄年中までは社存し、八年の検地を附せり、いつの頃か廃して今は松樹一株あり(新編武蔵風土記稿より)
境内石碑による彦沢香取神社の由緒
埼玉縣武蔵國北葛飾郡彦成村大字彦澤字内沼
村社香取神社
経津主命、武甕槌命、天児屋根命、比売神、大日孁貴命
當社ハ元和年間村中協議ヲ以テ下総國香取神社ヲ遷シ祭リテ以テ村社ト號ス。其後年数ヲ経過シテ天保年中ニ方テ再ヒ本社ヲ創建セシト云フ。明治五年四月村社ニ許可、同四十年二月五日同村大字同字同無格社神明社ヲ合併。
以上の神社が合祀され外に十一面観音立像が祀られ、氏子一同の厚い守護神(境内石碑より)
「埼玉の神社」による彦沢香取神社の由緒
香取神社
彦沢地区は、川端・内治・沼・井戸田という小字に表されているように、土地の低い所である。字沼にほ野道と呼ばれる農道があり、江戸期には、出水の折、この農道に水が潰くと年貢は免除となったという。当社はこの低地帯のうちでも、やや高い宇内沼にある。
『風土記稿』に「香取社、村の鎮守にて、稲荷を合殿とす、本地仏十一面観音を置、円能寺持」とあり、開発について「村民富右衛門が先祖田中修理は、甲州武田家浪客にて、駿州田中より当所へ来りて開発せしと云伝ふれば、天正十年(一五八二)武田滅亡後程なく土着せしにや」と載せている。しかし、口碑によれば、田中修理は東葛飾郡田中城の城主修理大夫義久であり、故あって当地に赴任し、当社を勧請し別当の円能寺を開基して寛永七年(一六三〇)に没したという。ちなみに修理は総代田中政康の祖である。『明細帳』はこれを「当社は元和年間(一六一五-二四)村中協議により下総国香取神社を遷し祀りて鎮守とす其後天保年中(一八三〇ー四四)社殿を再建する」と記している。明治五年村社となり同四十年内沼の神明社を合祀した。
内陣には『風土記稿』に載る十一両観音像が安置され、昭和五十七年建立の「香取神社並公民館完成記念碑」には、”絶対に(観音像に)手を触れてはならぬ、過去において(これを犯し)尊い何人という人命を失っている”と刻んでいる。(「埼玉の神社」より)
彦沢香取神社の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 「埼玉の神社」