須賀広八幡神社。熊谷市須賀広の神社

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須賀広八幡神社。延喜17年創建、弓矢八幡

須賀広八幡神社の概要

須賀広八幡神社は、熊谷市須賀広にある八幡神社です。須賀広八幡神社は、旧別当釋迦寺の創建と同じ延喜17年(917)の創建と伝えられ、八幡太郎義家が奥州征伐に際して侍臣を代参させて戦勝祈願したとも伝えられます。武門武将の崇敬が厚く「弓矢八幡」と称され、徳川家康の関東入国後、寛永10年(1633)に領主となった稲垣若狭守重太は厚く崇敬、若年寄に昇進する際に当社へ御供米・灯明田を寄進、累代崇敬を受けてきたといいます。明治維新後の社格制定に際し明治4年村社に列格、明治42年には神饌幣帛料供進神社に指定されていました。

須賀広八幡神社
須賀広八幡神社の概要
社号 八幡神社
祭神 誉田別命
相殿 -
境内社 神明社、三峰・稲荷・榛名・阿夫利・御嶽・天満・厳島・白山社合殿、天満天神石祠
祭日 春季例祭3月18日、秋季例祭10月14・15日
住所 熊谷市須賀広237
備考 -



須賀広八幡神社の由緒

須賀広八幡神社は、旧別当釋迦寺の創建と同じ延喜17年(917)の創建と伝えられ、八幡太郎義家が奥州征伐に際して侍臣を代参させて戦勝祈願したとも伝えられます。武門武将の崇敬が厚く「弓矢八幡」と称され、徳川家康の関東入国後、寛永10年(1633)に領主となった領主となった稲垣若狭守重太は厚く崇敬、若年寄に昇進する際に当社へ御供米・灯明田を寄進、累代崇敬を受けてきたといいます。明治維新後の社格制定に際し明治4年村社に列格、明治42年には神饌幣帛料供進神社に指定されていました。

境内掲示による須賀広八幡神社の由緒

八幡神社の祭神は、誉田別命で、神体は神鏡である。
社伝によれば、創建は延喜十七年(九一七)醍醐天皇の代である。武家の崇敬極めて厚く十一世紀末、八幡太郎義家(源義家)が奥州征伐(後三年の役)に赴く途中、侍人を当社に代参させて戦勝を祈らせたといわれている。
江戸時代の初め、稲垣若狭守重太の長臣田村茂兵衛が当地(須賀広)に陣屋を築き、以後この地を治めた。その後、寛永十一年(一六三四)に稲垣氏から当社に御供米四五〇俵(約二七〇〇〇キロ)を燈明料として七十坪の土地が寄附され、累代崇敬されていた。また、明和三年(一七六六)当社本殿再建遷宮式のとき、時の若狭守が自ら参拝して多額の幣帛料を寄進した。それからは、須賀広・野原・小江川地区等稲垣氏所領の村民の崇敬益々厚くなったと伝えられる。
大祭は、毎年十月十四日の夜と十五日で、獅子舞が奉納される。この獅子舞子は、三人で長男に限られ、当日は氏子一同社頭に集まって舞を奉納披露し、その後地区内を一巡するきまりとなっている。(埼玉県掲示より)

新編武蔵風土記稿による須賀広八幡神社の由緒

(須賀廣村)
八幡社
村の鎮守なり、弓矢八幡と號す、本地佛釋迦を安ず、釋迦寺の持、
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神明社
村民持、(新編武蔵風土記稿より)

「埼玉の神社」による須賀広八幡神社の由緒

八幡神社<江南町須賀広二三七(須賀広字宮内)>
延喜十七年(九一七)に創建されたと伝えられる当社は、和田川の清流を南に臨む丘陵上に鎮座し、杉を中心とした老木が生い茂るその広い神域には、古社の雰囲気が感じられる。社伝によれば、当社は、創建以後「弓矢八幡」と呼ばれ、世々武門武将の崇敬が厚く、上野国山名八幡と共に、上武両国に名高かったという。更に永保・寛治の時代(一〇八一-九四)には、八幡太郎義家が奥州征伐の途中、侍臣を代参させて戦勝を祈願したという伝えもある。
下って江戸時代、当地を領した近江国山上城主稲垣若狭守重太は当社を厚く崇敬し、後年若年寄に昇進するに当たり、当社に御供米四五〇俵と灯明田七〇坪を寄進し、更に宝暦十年(一七六〇、一説には明和三年)の当社の本殿再建遷宮式に際しては若狭守自ら参拝して多額の幣吊料を奉納したという。同家による崇敬はその後も続き、小江川の保泉寺にある同家霊廟に子孫が参拝に行く時には、当社にも必ず立ち寄って参詣したと伝える。
明治に入ると、古来須賀広の鎮守であった当社は村社になり、明治四十一年二月には字前新田に鎮座していた神明社を当社境内に移し、摂社として祀るようになった。また、当社の拝殿は従来草葺きであったが、維持が大変なこともあって、昭和三十一年には八幡様の神使である鳩の姿を棟の上にあしらった優美な瓦葺きに改められた。(「埼玉の神社」より)


須賀広八幡神社の周辺図