袋山久伊豆神社。越谷市袋山の神社

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袋山久伊豆神社。慶長5年(1600)創建の伝承

袋山久伊豆神社の概要

袋山久伊豆神社は、越谷市袋山にある久伊豆神社です。袋山久伊豆神社は、慶長5年(1600)に創建したと伝えられ、江戸期には持福院境内に祀られていたといいます。明治維新後に持福院は廃寺となり、当社は村社に列格、明治40年に袋山に鎮座していた雷電社を合祀しています。

袋山久伊豆神社
袋山久伊豆神社の概要
社号 久伊豆神社
祭神 大己貴命
相殿 -
境内社 浅間社、八坂社、天神社、白山社、稲荷神社、三峰社
祭日 例祭10月中旬
住所 越谷市袋山1455
備考 -



袋山久伊豆神社の由緒

袋山久伊豆神社は、慶長5年(1600)に創建したと伝えられ、江戸期には持福院境内に祀られていたといいます。明治維新後に持福院は廃寺となり、当社は村社に列格、明治40年に袋山に鎮座していた雷電社を合祀しています。

新編武蔵風土記稿による袋山久伊豆神社の由緒

(袋山村)
雷電社
村の鎮守とす、村民持、下同、
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稲荷社二宇
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持福院
新義眞言宗、末田村金剛院門徒、光照山と號す、本尊彌陀を安置せり、
久伊豆社
觀音堂(新編武蔵風土記稿より)

境内掲示による袋山久伊豆神社の由緒

袋山久伊豆神社の祭神・大己貴命(大国主命)は、衣食住や産業発展の神としてそのご神徳ご神威を、あまねく広大無辺に授けられ袋山氏子中の守護神として崇敬されています。
創建は慶長五年(一、六〇〇年)世にいう天下分け目の関ヶ原の戦いがあった年で、実に四〇六年の歴史を有し袋山のほぼ中央「根通三四一番地」に鎮座しています。
当社の古文書によれば「越ヶ谷領袋山村久伊豆大明神」として、時の朝廷(神祇管領)から賜わった文書も残されており、近郷近在の信仰の中心として信奉されています。(境内掲示より)

「埼玉の神社」による袋山久伊豆神社の由緒

久伊豆神社<越谷市袋山三四一(袋山字根通)>
袋山の地名は、元荒川に袋のように囲まれ、砂丘状に発達した高地(自然堤防)であるその地形に由来し、氏子の細沼家の先祖が村の開発者であると伝えられる。細沼家の家伝によれば、同家は楠木正成の一族で甲州(山梨県)に住していたが、戦国時代に落ち延びて武州見沼郷にとどまり、その後に袋山村の開拓を行ったという。
『風土記稿』袋山村の項に「雷電社村の鎮守とす、村民持、下同、〇稲荷社二宇(中略)久伊豆社」とあるように、江戸時代の袋山村には四つの神社が祀られていた。ここには雷電社が鎮守とあるが、明治の社格制定時には当社が村社となり、雷電社は二つの稲荷社と共に無格社になった。その後、雷電社は明治四十年に当社に合祀され、今では旧地さえわからない。
一方、『郡村誌』に記された諸社の勧請年を見ると、雷電社は元禄八年(一六九五)、稲荷社が寛延四年(一七五一)と宝暦八年(一七五八)であるのに対し、当社は慶長五年(一六〇〇)と最も古く、また、雷電社が村の南端近くにあるのに対し、当社は村の中央に鎮座し、その向かいには明治初年まで持福院という別当寺もあった。更に、雷電社が今では旧社地もわからない状況であることから考えると、『風土記稿』では雷電社が鎮守として記されてはいるものの、実際は当社が村の鎮守として信仰されていたことを物語っていると思われる。(「埼玉の神社」より)


袋山久伊豆神社の周辺図