金鑽山大光普照寺。児玉郡神川町二ノ宮にある天台宗寺院、天台宗別格本山

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金鑽山大光普照寺。舒明天皇の勅願寺、天台宗関東八箇檀林、天台宗別格本山

大光普照寺の概要

天台宗寺院の大光普照寺は、金鑽山一乗院大光普照寺と号します。大光普照寺は、聖徳太子が飛鳥時代(593-622)に開創、舒明天皇の勅願寺だったと伝えられます。その後第三代天台座主慈覚大師円仁が仁明天皇代(833-850)に再興したといいます。鎌倉時代には川越喜多院尊海の高弟豪海が住持となり、学問所を開設(金鑚談所)し、当寺を中興、徳川家康の関東入国に際しては寺領30石の御朱印状を受領しています。江戸期には天台宗関東八箇檀林の一つとして、多くの僧侶を輩出、現在は天台宗の別格本山寺院となっています。関東百八地蔵霊場18番、児玉三十三霊場33番霊場です。

大光普照寺
大光普照寺の概要
山号 金鑽山
院号 一乗院
寺号 大光普照寺
住所 児玉郡神川町二ノ宮667-1
宗派 天台宗
本尊 十一面観世音像
葬儀・墓地 -
備考 -



大光普照寺の縁起

大光普照寺は、聖徳太子が飛鳥時代(593-622)に開創、舒明天皇の勅願寺だったと伝えられます。平安時代に入ると下野国出身の第三代天台座主慈覚大師円仁が仁明天皇代(833-850)に再興、本尊十一面観音像を安置し、十一面観音の別称大光普照より、寺号としたといいます。その後第十八代天台座主慈恵大師良源が止錫、自刻の像(元三大師像)を奉安、元三大師の寺と呼ばれるようになります。鎌倉時代には川越喜多院尊海の高弟豪海が住持となり、学問所を開設、金鑚談所と称され、当寺を中興しました。その後も鉢形の城主北條安房守氏邦や御嶽城主長井豊前守政実より寄進を受け、徳川家康の関東入国に際しては寺領30石の御朱印状を天正19年(1591)に受領しています。江戸期には天台宗八箇檀林の一つとして、多くの僧侶を輩出、現在は天台宗の別格本山寺院となっています。

埼玉県掲示による大光普照寺の縁起

大光普照寺
元三大師と呼ばれるこの寺は、正式には金鑚山一乗院大光普照寺という天台宗別格本山の名刹であり、古くは聖徳太子の開創で舒明天皇の勅願寺であったと伝える。平安時代の初期、天台宗祖伝教大師最澄の弟子で、下野国(栃木県)出身の慈覚大師円仁の中興によって本尊に十一面観音が安置され、その別名によって寺号がつけられたのである。
その後、十八代天台座主である慈恵大師良源の留錫により元三大師の寺として親しまれるようになった。また、鎌倉時代になると川越喜多院から豪海という僧が来住し、僧侶育成の学問所を開設した。これが世にいう金鑚談所であり、江戸時代に上野に勧学講院ができると、その系列の八箇檀林の一寺として、多数の学徒を収容していた。
また、源義家、御嶽城主、鉢形北条氏、児玉党久米氏などの武将の信仰も厚く、後には徳川幕府から寺領三〇石の御朱印を賜り、隆盛を見た。
現在の本堂は文化五年(一八〇八)の再建で、元三大師の信仰が盛んであったためか、中央に大師を安置する形となった。元三大師とは正月三日になくなられたので名づけられたという。当日は最大の縁日で、初詣を中心とする厄除、交通安全を祈願する参拝者が多く訪れている。(神川町掲示より)

「児玉郡誌」による大光普照寺の縁起

青柳村大字二ノ宮字元森(江州坂本延暦寺末)
天臺宗山門派 金鑽山一乗院 大光普照寺
一、本尊 十一面観世音、元三大師
一、由緒 當院始め聖徳太子の御祈願所・舒明天皇の勅願所・鎮護國家の道場(金鑽明神の本地佛薬師如来は聖徳太子の作なりと云ふ)と云ふ、其後仁明天皇の御宇慈覺大師本山に入る、此時始めて天臺宗となる故に大師を以て當山の中興開基となす、堂中に慈惠大師自作の像を安ず。其後廢せしを豪海といふ僧再び之を復興せり。永禄の頃鉢形の城主北條安房守氏邦の寄附状及び長井豊前守政實が寄附状を蔵せり、政實は甲州武田家の旗下にて御嶽の城主たり、寺領三十石は天正十九年御朱印を賜ふ。其後寺格も進みて慶長十五年僧正官の宣旨又寛永・貞享の頃・東叡山よりの免状等あり、豪海より當今まで既に六十六世に及ぶ。明治維新前までは金鑚神社の別當寺たりしことは今尚ほ世人の記憶する所なるべし、境内三千五百九十四坪。(「児玉郡誌」より)

新編武蔵風土記稿による大光普照寺の縁起

(金鑚村)
金鑚神社別當一乗院
天台宗、江戸東叡山末、金鑚山大光普照寺と號し、金鑚寺とも呼ぶ、本尊十一面観音を安ぜり、當寺は聖徳太子の開基にして、慈覺大師の中興なりと云、後癈セ氏を豪海と云僧再び興して、今五十三世に及べりといへば、古き寺なることは論なけれど、豪海はいつの頃の人なるや、其寂年を傳へず、堂中に慈惠大師自作の像を安ず、此像に附たる縁起もありしが是も烏有となりしかば、總て往古の事は傳へず、永禄の頃鉢形の城主、北條安房守氏邦よりの寄附状、および長井豊前守政實が寄附状等を蔵せり、其文末にだせり、政實は甲州武田家の旗下にて、隣村渡瀬村の内、御嶽の城主たり、彼村の條に辨ぜり、今寺領三十石は天正十九年御朱印を賜ふ、其後寺格も進みて慶長十五年僧正官の宣旨、又寛永・貞享の頃東叡山よりの免状等あり、寫して左に載す、(書面省略)
寺寶。琵琶二面、八幡太郎義家寄附と云
山王社
稲荷社
秋葉社
三佛堂。彌陀・釋迦・薬師を安ぜり、薬師は則金鑚明神の本地にて、聖徳太子の作なりといふ、
一切經蔵。本尊薬師を安ず、
多寶塔。二間半四面にて、本尊多寶釋迦を安ず、此塔は御嶽の山つづきに建り、阿保全隆の造立と云、阿保氏のことは隣村渡瀬村の條に辨ぜり、塔の眞柱正面に天文三年午八月晦日、大檀那阿保弾正全隆本願大工等の文字見え、其餘は漫滅して讀べからず、又後背に寛保三亥年十一月八日、金鑚山四十世學玄山亮幽の字見え、其他讀得ず、是再造の時記せしものなりと云、其他は讀得。
鐘樓。寛保元年再鑄の鐘をかく、
塔頭蓮華院、寶珠院(新編武蔵風土記稿より)


大光普照寺所蔵の文化財

  • 大光普照寺古文書(神川町指定有形文化財)
  • 絹本着色両界曼陀羅図対幅(神川町指定有形文化財)

大光普照寺古文書

当山に所蔵されている五点の古文書が町指定有形文化財に指定されている。
「長井政実寄進状」永禄十三年(一五七〇)御嶽山城主長井政実、金鑚薬師に寺領として賀美郡植竹村寺田のうち三貫文の地を寄進する。
「北条氏邦寄進状」天正三年(一五七五)北条氏邦、児玉郡金鑚寺に寺領五貫文を安堵する。
「僧正口宣案」慶長十五年(一六一〇)大光普照寺住職尊芸が、権僧正に任命される。
「下文」僧正口宣案に添えられた文書。
「天海僧正補任状」寛永十八年(一六四一)大光普照寺住職に僧正衣の他に色衣をつけてよいというものである。(神川町教育委員会掲示より)

絹本着色両界曼陀羅図対幅

本図を有する当山は、慈覚大師円仁の開基と言われる天台宗の密教道場で、特に鎌倉末期以降関東三談林と称する学問所・修行道場であった。これらに本図は実際に使用されていたものである。
本図は、金剛界・胎蔵界両部揃いのもので、諸尊の描法は定法に則った謹直なものながら、表現に一種ひなびた稚拙味がある。像容は、童顔童身で丸々とした小肥り気味の容貌をもつ親しみ易いものとなっている。こうしたことなどから、製作は室町時代に位置づけられる。
なお、本図には、昭和五十八年の修理に際して取り外した旧軸木が付属しており、寛文九年(一七九七)の修理墨書銘が残されている。(神川町教育委員会掲示より)

大光普照寺の周辺図