羽黒堂。比企郡鳩山町奥田にある寺院

猫の足あとによる埼玉県寺社案内

羽黒堂。八十八か所巡拝供養塔・百地蔵尊・大黒天

羽黒堂の概要

寺院の羽黒堂は、鳩山町奥田にある地蔵堂です。羽黒堂の創建年代等は不詳ながら、鳩山町から嵐山町の要衝(大蔵館跡菅谷館跡)へ出る笛吹峠の入口にあります。地蔵尊を奉安する地蔵堂が、羽黒堂と呼ばれるようになった謂れについては、「坂上田村麻呂が大蛇を追いかけたが当地周辺で大蛇を見失った(はぐれた)」、「戦の行軍ではぐれ討たれた士卒を埋めたからはぐれ塚と呼んだ」、「出羽国出身の人を葬ったから羽黒山に因んで名付けた」、また「歯を黒くした(高貴な)大将の首を首を埋めたから」など諸説ありますが、いずれも当地から笛吹峠にかけてあった「十一人塚」(全て道路整備のために破壊)に因んだ戦いから連想された説のようです。

羽黒堂本堂
羽黒堂の概要
山号 -
院号 -
寺号 -
本尊 地蔵菩薩像
住所 比企郡鳩山町奥田
宗派 -
葬儀・墓地 -
備考 -



羽黒堂の縁起

羽黒堂の創建年代等は不詳ながら、鳩山町から嵐山町の要衝(大蔵館跡菅谷館跡)へ出る笛吹峠の入口にあります。地蔵尊を奉安する地蔵堂が、羽黒堂と呼ばれるようになった謂れについては、「坂上田村麻呂が大蛇を追いかけたが当地周辺で大蛇を見失った(はぐれた)」、「戦の行軍ではぐれ討たれた士卒を埋めたからはぐれ塚と呼んだ」、「出羽国出身の人を葬ったから羽黒山に因んで名付けた」、また「歯を黒くした(高貴な)大将の首を首を埋めたから」など諸説ありますが、いずれも当地から笛吹峠にかけてあった「十一人塚」(全て道路整備のために破壊)に因んだ戦いから連想された説のようです。

新編武蔵風土記稿による羽黒堂の縁起

(奥田村)
地蔵堂
西方須江村境笛吹峠の入口にあり、羽黒堂ともいへり小堂にて石の地蔵を安ず、村民の持、往古此邊廣原にて、そこへ上るなだれの道、則笛吹峠なり、此邊塚十一あり土人云骸骨を埋みし塚にて、近き頃までも雨夜には、冥光燃し故、人々靈駭し、塚毎に地蔵を建てゝ追福せしかば、冥火起ることなしと云、峠に塚二つあり、塚上に松樹あり、茶臼塚と云、また羽黒堂と云るは、歯を黒めたる大将の首を埋めし故なりと、又説に出羽國の人を葬りし故、羽黒山の縁にとれりと、或は士卒にはぐれ討れし者を埋めし故、はぐれ塚といひしを、誤り唱ふるなりと、何れも信ずべきことには非るべし、按に【太平記】正平七年閏二月廿八日武蔵野合戦敗れて、義宗上野皇子を笛吹峠の城に入れ奉云々とあり、此峠をこゝのことなりとも傳れど、同書に新田武蔵守は、将軍の御運に退緩して、石濱の合戦に本意を達せざりしかば、武蔵國を前になし、越後信濃を後口に當て、笛吹峠に陣取てぞおはしける云々とあり、此地を云ひしならんには、武蔵國を前とは云べからず、これ等のことをもて考れば、【太平記】に載る處、笛吹峠は此地にはあらで、上野國碓日峠のことなるべし、笛吹をうすいと訓ぜし所以はしらず、(新編武蔵風土記稿より)

「埼玉の神社」による羽黒堂の縁起

氷川神社<鳩山町奥田三九五(奥田字宮附)>
地内には、旧跡が幾つかある。羽黒堂は通称を「はぐれ堂」といい、その昔、坂上田村麻呂が大蛇を追ってきたが、この辺りではぐれ、大蛇を見失ったという。昔、当地に嫁に来る時は、この前を通ると「はぐれるから」といい、避けて通ったものである。(「埼玉の神社」より)


羽黒堂の周辺図


参考資料

  • 「近世鳩山図誌」
  • 新編武蔵風土記稿