遍照院。埼玉県行田市にある真言宗智山派寺院

猫の足あとによる埼玉県寺社案内

医王山遍照院。駒形薬師、藤原秀衡の所縁寺院、行田忍城下七福神

遍照院の概要

真言宗智山派寺院の遍照院は、医王山常福寺梅本坊と号します。平泉城主藤原秀衡が守り本尊の薬師如来に心願を立て祈ると快癒し、その薬師如来像を牛車に乗せ向わせたところ当地で牛が亡くなったため、仏縁の地として創建された薬師堂の中心寺院です。慶長9年(1604)には徳川家康より薬師堂全体に25石の御朱印地を拝領、多くの塔頭、末寺を擁した小本寺格の寺院です。駒形薬師様として知られ、行田救済菩薩十五霊場の発願霊場、関東九十一薬師霊場36番、行田忍城下七福神の福禄寿、東国花の寺百ヶ寺埼玉12番です。

遍照院
遍照院の概要
山号 医王山
院号 遍照院
寺号 常福寺
本尊 薬師如来(大日如来)
住所 行田市駒形1-4-18
宗派 真言宗智山派
縁日 1月1日初詣祈願護摩供修行、1月7日初薬師大祭、5月8日花まつり、7月7日薬師御縁日大祭、8月16日大施餓鬼会
葬儀・墓地 -
備考 駒形薬師



遍照院の縁起

遍照院は、平泉城主藤原秀衡が守り本尊の薬師如来に心願を立て祈ると快癒し、その薬師如来像を牛車に乗せ向わせたところ当地で牛が亡くなったため、仏縁の地として創建された薬師堂の中心寺院です。慶長9年(1604)には徳川家康より薬師堂全体に25石の御朱印地を拝領、多くの塔頭、末寺を擁した小本寺格の寺院です。

境内掲示による遍照院の縁起

遍照院と薬師如来の由縁
遍照院は、寛仁年間(1020)の草創といわれ、もとは山城国醍醐三宝院末で、延宝3年御室御所仁和寺の直末にかわり、秀啓代に檀林格となり、8ヶ寺の本寺として、寺領25石の御朱印寺であった。
境内の薬師堂をはじめ本堂、大塔、庫裡、客殿、鐘楼、山門、仁王門の七堂伽藍や寺内の東福坊、宝蔵坊、東之坊、中之坊、西之坊、観音寺の六坊は、たびたびの兵火と火災によって焼失し、のち寛政5年(1793)総ケヤキ木造りの薬師堂を再建され、江戸時代の技法を凝らした文化財的な建築様式である。
また、堂内に安置の薬師如来座像は、行基菩薩が御彫刻で、奥州平泉城主藤原秀衡卿の守護仏とも伝わり、像高86センチ桧木の寄木造り二重円光飛天光背、平安後期中葉(1100)の製作と推定され、温容端麗な藤原仏の代表作である。
寺号・・・医王山常福寺遍照院梅本坊(開山慶儀)
宗派・・・真言宗智山派、総本山京都智積院
本尊・・・薬師如来(大日如来)(境内掲示より)

新編武蔵風土記稿による遍照院の縁起

薬師堂
慶長9年堂領25石の御朱印を附らる。相伝ふ此薬師は昔藤原秀衡が守護佛にて、奥州信夫の郷に安置す後夢想に由て相州鎌倉へ移さんとせしに、当所まで持来りし時、俄に厨子重りて動かす事を得ず、爰に留らんとの佛意ならめとて、頓て一宇を立て安置せしが、終に霊場となりて諸人渇仰すと云、土人此像を妻薬師と呼べり、妻は目の仮借にして眼病を患るものに霊験ある故なりとぞ。
仁王門。鐘楼。寛永11年鋳造せしを後、破れて享保21年再建の鐘をかく。城内及び城下町へ時を報ずる鐘なり。弁天社。大日堂。地蔵堂。
別当遍照院。
医王山常福寺梅本坊と号す。前の堂領の内9石は当院にて所務し、其余の7石は後の六供僧へ配富す。新義真言宗にて、昔は山城国醍醐三寶院の末山なりしが、延宝3年御室仁和寺の末に属すと云。開山慶儀法印弘治年中の人なり。本尊大日を安置す。
大毘羅権現社。薬師12神の内、宮毘羅大将を祀ると云。
観音寺。正観音を本尊とす。此以下西之坊に至るまでを六供僧と称す。
東福坊、本尊不動を安ず。
青蓮寺、始は寶蔵坊と号す。慶長3年堂領の御朱印にも、猶坊号を記さたえば、寺号に改しは後年なること知らる。本尊弁天を安置す。
東之坊、本尊不動を安す。
中之坊、毘沙門を本尊とす。
西之坊、本尊大日を安す。
千手院。遍照院末、愛宕山大聖寺と号す。開山永慶寛永13年11月29日示寂す。本尊不動を安す。(新編武蔵風土記稿より)


遍照院のもと塔頭・末寺

薬師堂の六供僧

六供僧とは、駒形薬師堂遍照院の他に、堂宇(坊)を構えていた6塔頭(寺へ昇格も含む)で、御朱印を遍照院とともに拝領していました。(いずれも廃寺・または合寺)

  • 観音寺
  • 東福坊
  • 青蓮寺(寶蔵坊)
  • 東之坊
  • 中之坊
  • 西之坊

遍照院のもと末寺

遍照院のもと末寺は、行田市内に6ヶ寺、鴻巣市に1ヶ寺が現存しています。


遍照院所蔵の文化財

  • 木造薬師如来坐像(行田市指定文化財)
  • 椎(行田市天然記念物)

木造薬師如来坐像

藤原秀衡来と伝えられるもので、像高84cmを計ります。
檜材、寄木造、漆箔、彫眼、螺紙刻出で、藤原時代末の作と言われています。(行田市教育委員会掲示より)

遍照院の周辺図