串引沼。若狭局が忘れ形見の櫛を放った沼
串引沼の概要
串引沼は、東松山市大谷にある名所旧跡です。串引沼は、耕作のために天水を溜めた池で「奇比企沼」「櫛引沼」とも記します。二代将軍源頼家が修善寺で害せられて、当地に逃れた若狭局は、祖母比企禅尼の棲む比丘尼山に逃れて源頼家の菩提を弔うため大谷山寿昌寺(現扇谷山宗悟寺)を建立、深い悲しみを断つため、比企禅尼の勧めにより、忘れ形見の鎌倉彫りの櫛を当沼に投げ込んだことから、串引沼と呼ばれるようになったと伝えられています。
旧跡・名所名 | 串引沼 |
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みどころ | 史跡 |
入場時間 | - |
入場料 | 無料 |
住所 | 東松山市大谷 |
備考 | - |
串引沼の由緒
串引沼は、耕作のために天水を溜めた池で「奇比企沼」「櫛引沼」とも記します。二代将軍源頼家が修善寺で害せられて、当地に逃れた若狭局は、祖母比企禅尼の棲む比丘尼山に逃れて源頼家の菩提を弔うため大谷山寿昌寺(現扇谷山宗悟寺)を建立、深い悲しみを断つため、比企禅尼の勧めにより、忘れ形見の鎌倉彫りの櫛を当沼に投げ込んだことから、串引沼と呼ばれるようになったと伝えられています。串引沼の周縁には修善寺から寄贈された山桜が植樹されています。
新編武蔵風土記稿による串引沼について
(大谷村)
小名櫛引谷(新編武蔵風土記稿より)
境内掲示による串引沼について
串引き沼
串引き沼は、『郡村誌』ではこの沼を「奇比企沼」と記され、次のような伝説を伝えています。
「夫頼家を殺された若狭の局は、ここ大家にに逃れました。祖母比企の尼の勧めで、深い悲しみを断つため頼家形見の鎌倉彫の櫛を沼に投げ込みました。時は元久元年(一ニ〇四年)七月半ば、丁度、頼家の命日に当たる日であったと云います。」という悲しい伝説です。
土手に並ぶ桜は、頼家最期の地の修善寺から寄贈された山桜で「頼家桜」と呼ばれています。(東松山市観光協会掲示より)
境内掲示による串引沼について
若狭局は二代将軍源頼家公の夫人になりましたが、夫の源頼家公が幽閉の地、伊豆修善寺で害せられるや位牌をたずさえて故郷に帰り、比丘尼山の麓に草庵大谷山寿昌寺を結び、夫の菩提を弔ったと伝えられています。
若狭局は亡き夫頼家公の唯一の形見である鎌倉彫りの櫛を眺めては往時を偲び涙にくれていました。痛ましい孫娘の姿を見るに見かねた比企禅尼は櫛を捨てて思いを断つように言いました。若狭局は泣く泣く櫛を沼に放ちました。この悲話を伝えるのが串引沼です。(以下省略)(比企一族顕彰会掲示より)
串引沼の周辺図
参考資料
- 「新編武蔵風土記稿」