妙光寺。逗子市久木にある日蓮宗寺院

猫の足あとによる神奈川県寺社案内

妙光寺。当地名主の先祖松岡雅楽助が開基

妙光寺の概要

日蓮宗寺院の妙光寺は、法久山と号します。妙光寺は、松岡雅楽助が両親(父法久・母妙光)の菩提を弔うために文明3年(1471)に創建、日圓上人が開山したといいます。松岡雅楽助の父富永三郎左衛門尉は足利持氏に仕え、松ヶ岡に居住していましたが、永享の乱により当地に閑居、土着して松岡を名乗り、代々名主を勤めていました。

妙光寺
妙光寺の概要
山号 法久山
院号 -
寺号 妙光寺
住所 逗子市久木6-1-6
宗派 日蓮宗
葬儀・墓地 -
備考 -



妙光寺の縁起

妙光寺は、松岡雅楽助が両親(父法久・母妙光)の菩提を弔うために文明3年(1471)に創建、日圓上人が開山したといいます。松岡雅楽助の父富永三郎左衛門尉は足利持氏に仕え、松ヶ岡に居住していましたが、永享の乱により当地に閑居、土着して松岡を名乗り、代々名主を勤めていました。

境内掲示による妙光寺の縁起

妙光寺(日蓮宗)・建てた人とその系譜
室町時代の中頃、京都の足利将軍と鎌倉公方の争い(永享の乱)があり、公方が敗れました。この時、公方に仕えていた武士が久野谷(久木)に帰り、農民に戻りました。やがて、土地の有力者になった彼の子孫が、信心深かった両親の菩提を弔って、文明三年(一四七一)に両親の法要を山号・寺号として当寺を興しました。
この後、この一族は代々この地の名主を勤め、江戸時代には田越橋(現富士見橋)の架橋や鳴鶴が崎の道路整備など郷土の発展に尽力されました。
明治十六年(一八八三)に、三浦半島の村々に働きかけ、資金を集めて開通させた「小坪隧道」(土木学会選奨土木遺跡)は、逗子・鎌倉間の難儀な山越えから開放したばかりでなく、三浦半島の近代化に大きく貢献しました。横須賀線開通の六年前のことでした。(逗子市・自然の回廊プロジェクト掲示より)

新編相模国風土記稿による妙光寺の縁起

(久野谷村)
妙光寺
法久山と號す、日蓮宗(京本圀寺末)開山日圓(文明四年正月朔日卒、)文明三年松岡雅楽助其二親の冥福を修し、當寺を建、圓を延て開山とす、寺山號は則二親の法名にとてり(父三郎左衛門尉富永法名法久、應仁二年六月廿七日死、母妙光は文明元年八月廿八日死、)本尊三寶祖師(祖師は土中出現の像なり、)また日蓮の眞骨を寺寶とす、
△番神堂。相傳ふ濃州の沙門賢信當時、富永の宅に逗留せしに讀經の聲聞へしかば其聲を跡して爰に到り、地を穿見るに岩堀あり、中に日蓮の像を得、依て一宇を結て安置す、實に文政元年なり、其後文明三年至て當寺建立ありしかば則其像を移して本尊とす、よりて此堂に番神を安置せしと云故に此堂を本の坊と稱す(堂前本坊の額を掲ぐ、本國寺日解筆、)
△七面堂
△鐘樓。正保三年鑄造の鐘を掛、
△子院。善行坊。本成坊(並慶長十八年造立)
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舊家六郎兵衛
里正なり、先祖富永三郎左衛門永享中鎌倉持氏に仕へ、松ヶ岡に居住す、後故有て當所に蟄居し松岡を家號とし富永を實名とす、應仁二年死す、其子大炊助早世し次子雅楽助(村内妙光寺を開基す)跡を襲ぎ、里正となりしより世々其職に居り、今の六郎兵衛に至ると云ふ、 (新編相模国風土記稿より)


妙光寺の周辺図


参考資料

  • 新編相模国風土記稿