洲宮神社|館山市洲宮の神社

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洲宮神社|后神天比理乃咩命神社の二宮(奥殿)

洲宮神社の概要

洲宮神社は、館山市洲宮にある神社です。洲宮神社は、(安房神社を創建した)天富命が、御祖母神天比理乃咩命が奉持していた御神鏡を神霊として創祀されたと伝えられ、延長5年(927)に作成された延喜式神名帳に記載されている名神大社「后神天比理乃咩命神社」に比定されています(当社を奥殿として二宮、洲崎神社を拝殿として一宮と称してきたともいいます)。創建時は海岸に接していた魚尾山に祀られていましたが、文永10年(1273)火災により当地へ移転したといいます。安房国開拓にまつわる神社であることから数多くの文化財が保存されています。

洲宮神社
洲宮神社の概要
社号 洲宮神社
祭神 天比理刀咩命
相殿 -
境内社 -
例祭日 -
住所 館山市洲宮921
備考 旧県社、延喜式神名帳名神大社



洲宮神社の由緒

洲宮神社は、(安房神社を創建した)天富命が、御祖母神天比理乃咩命が奉持していた御神鏡を神霊として創祀されたと伝えられ、延長5年(927)に作成された延喜式神名帳に記載されている名神大社「后神天比理乃咩命神社」に比定されています(当社を奥殿として二宮、洲崎神社を拝殿として一宮と称してきたともいいます)。創建時は海岸に接していた魚尾山に祀られていましたが、文永10年(1273)火災により当地へ移転したといいます。安房国開拓にまつわる神社であることから数多くの文化財が保存されています。

「千葉県神社名鑑」による洲宮神社の由緒

祭神は天玉太命の后神で、神武天皇元年、天富命が勅命を奉じ、魚尾山に奉祀されたという。当時魚尾山は海辺にあったので洲神または洲宮と称された。亀山天皇文永一〇年に火災に遭い今の地に奉遷す。農業の神として崇敬篤い。明治六年県社に列す。(「千葉県神社名鑑」より)

「稿本千葉縣史」による洲宮神社の由緒

洲宮神社
安房郡(旧安房郡)神戸村大字洲宮の中央に在り、境内五百七十坪、祭神は天比理乃咩命なり。社伝に云ふ、神武天皇元年四月中卯ノ日、天富命其の母神を舊洲宮村の南方魚尾山の上に祀り給ふ、當時海濱に接せしを以て洲神域は洲宮と稱す(山上猶洲宮の字あり慶長元和の水帳亦これを記せり)文永十年十二月十五日火災に罹り今の地に移すと。祭日は八月十一日にして古来舊洲宮・藤原二村の氏神たり、明治十八年四月十七日縣社に列せらる。明治三十九年幣帛料供進指定(「稿本千葉縣史」より)


洲宮神社所蔵の文化財

  • 洲宮神社縁起(館山市指定有形文化財)
  • 洲宮神社御田植神事(館山市指定無形民俗文化財)
  • 祭祀用土製模造品(館山市指定有形文化財)
  • 木造天部像(館山市指定有形文化財)

洲宮神社縁起

洲宮神社は安房開拓神話にまつわる神社で、安房神社の祭神である天太玉命の妃神、天比理乃咩命を祀っています。そのためか、神社に伝えられる縁起では忌部一族による安房の開拓や、安房神社、洲宮神社、下立松原神社の創建の由来などが語られています。本文のうち3分の1は、失われた『安房古風土記』ではないかと推定されています。
この縁起の成立年代は不明ですが、『古語拾遺』(807年成立)からの引用があり、平安時代以降と推定されます。別紙となっている奥書に、慶長2(1597)年に虫食いのため元の本から写したと記してありますが、現存の縁起はそれを更に後世写し取ったものと考えられています。(境内掲示より)

洲宮神社御田植神事

毎年元日に洲宮神社前で、その年の豊作を祈って行われる儀礼です。羽織袴姿の作男が唱える言葉に従って、まず氏子が竹の鍬で田を耕す所作をします。続いて牛役の者が代かきを行い、作男が籾まきをします。最後に早苗も模した松葉を手に氏子が田植の所作をして終わりとなります。(境内掲示より)

祭祀用土製模造品

洲宮神社の旧社地と伝えられる魚尾山から出土した、手づくね土器と鏡・勾玉・有孔円板の土製模造品(器物を土で模して作ったもの)などです。古墳時代後期のものと考えられます。この時期安房では、土製模造品を使用した神まつりが盛んに行われており、これらの出土品はそうした安房独自の祭祀の形態を表すものです。(境内掲示より)

木造天部像

一木造りですが、右腕は失われ、左手もひじより先がなく、顔が損傷しているため像容は不明です。四天王から二天王のうちの一体、あるいは毘沙門天像と考えられています。像高は76.5cmです。細部は省略されたところもあり、南北朝期から室町時代前期にかけて制作されたと考えられます。(境内掲示より)

洲宮神社の周辺図


参考資料

  • 「千葉県神社名鑑」
  • 「稿本千葉縣史」