妙弘寺|茂原市茂原にある日蓮宗寺院

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市場山妙弘寺|茂原に市場が開設された際に創建

妙弘寺の概要

日蓮宗寺院の妙弘寺は、市場山と号します。妙弘寺は、領主大久保治右衛門忠佐の許可を得て慶長4年(1599)に開設された交易市場の中心に大黒天像を奉祀して一寺を建立、小西檀林初祖通王院日裕上人を開山に迎えて市場寺としたといいます。大久保忠佐(法号源信院殿道喜日諦大居士)が沼津で卒去した際、寺号を市場山妙弘寺と改めました。その後市場の発展に伴い寺地が狭隘となり、時の住職日円は藻原寺の末寺となり、当地へ移転、玄立坊となったといいます。開山日裕上人の330回忌に際して、昭和11年寺号を市場山妙弘寺に復したといいます。

妙弘寺
妙弘寺の概要
山号 市場山
院号 -
寺号 妙弘寺
住所 茂原市茂原1239
宗派 日蓮宗
縁日 -
葬儀・墓地 -
備考 -



妙弘寺の縁起

妙弘寺は、領主大久保治右衛門忠佐の許可を得て慶長4年(1599)に開設された交易市場の中心に大黒天像を奉祀して一寺を建立、小西檀林初祖通王院日裕上人を開山に迎えて市場寺としたといいます。大久保忠佐(法号源信院殿道喜日諦大居士)が沼津で卒去した際、寺号を市場山妙弘寺と改めました。その後市場の発展に伴い寺地が狭隘となり、時の住職日円は藻原寺の末寺となり、当地へ移転、玄立坊となったといいます。開山日裕上人の330回忌に際して、昭和11年寺号を市場山妙弘寺に復したといいます。

境内石碑による妙弘寺の縁起

市場山妙弘寺
抑当山は慶長四年四月、当時の茂原村が独り近隣他村に魁けて交易市場を開きたるも同六年に至りこれが運営の拠点として創建せる市場寺を以て濫觴となす
今その由来を繹ぬるに天正十八年八月徳川家康江戸に入府するや譜代の諸臣を分封し大久保治右衛門忠佐をして茂原五千石を領せしむ。当時茂原近郷に於ては塩の需給関係極度に逼迫し住民のこれが入手容易ならず。時に慶長四年二月時の有志白井次郎右衛門、丸弥左衛門、安川助右衛門、加藤四郎右衛門等協議の上、主として塩の需給を円滑ならしめんが為交易市場開設の嘆願書を提出せり。依って領主たる大久保忠佐は村民の窮状を察して直ちにこれを許可し同年四月開市(現在の本町と昌平町の間)を見るに至りたるも同六年二月市場の中心に一宇を建立して市場寺となし、傍らにこれが守護神として大黒天の尊像を奉祀し小西檀林初祖通王院日裕上人を迎えて開山たらしむ。越えて慶長十八年九月に至り旧領主大久保治右衛門忠佐沼津城に於て卒去、法号源信院殿道喜日諦大居士たり。是に於て当山との結縁浅からざりし日諦を以て当山の第二祖とすると共に寺号を市場山妙弘寺と称す。
かくてこれが交易市場はその運営宜しきを得、年を遂うて隆昌発展の一途を辿り遂にこれが敷地の狭隘を告ぐるに至れるを以て時の住職日円は妙弘寺を以て本山妙光寺(現在の藻原寺)の末寺として字元山(現在地)に移転、自らは当時十六坊の筆頭席則ち一老職として遇せらる。即ち玄立坊是なり。
因みに交易市場については後年三浦監物により本納、矢貫(長南)、大網、茂原、一宮の五箇村を一組とし六斎市の開設を見るに至りしも茂原がこれが先蹤たり原型たりし点に於て正にその序幕的役割を果たせるものと謂うを得べし。
降って昭和十年に至り開山日裕上人第三百三十回忌に当り寺号改称の願書を提出、翌十一年五月十八日を以て旧号を復し市場山妙弘寺と称す。同三十九年本堂を改築その寺観を一新せるも同五十六年に至り宗祖日蓮大聖人第七百遠忌を記念し本堂の大改修新山門建立を企画す。今はその工を竣え来る十月二十七日の佳辰を卜し落慶供養を厳修すると同時に新たに市場大黒天を造顕開眼し旧観に復せんとす。
今茲に浄業成就を記念し仏祖三宝並に歴代先聖に報謝し奉ると共に代々檀越の積徳を讃えんが為、当山の沿革の概要を記す聊か以て後代に伝うる所あらんとすと云尓(境内石碑より)


市場山妙弘寺の周辺図