妙照寺|柏市大井にある日蓮宗寺院

猫の足あとによる千葉県寺社案内

長国山妙照寺|中老僧越後阿闍梨日辨上人開山

妙照寺の概要

日蓮宗寺院の妙照寺は、長国山と号します。妙照寺は、中老僧の越後阿闍梨日辨上人が、正應元年(1288)頃に当地にあった真言宗の”御堂”を日蓮宗に改めて光雲山妙照寺として開創したといいます。当寺の鬼子母神は、法華経寺の宝蔵に安置されていたものを当山へ遷した奉安、龍神堂は身延七面山からの勧請だそうです。昭和45年に霊園を開設しています。なお、当寺を開創した日辨上人は、茂原鷲山寺・駿河常諦寺・常陸願成寺・甲斐遠照寺・相模弘行寺等を開創しています。

妙照寺
妙照寺の概要
山号 長国山
院号 -
寺号 妙照寺
住所 千葉県柏市大井1070
宗派 日蓮宗
葬儀・墓地 -
備考 -



妙照寺の縁起

妙照寺は、中老僧の越後阿闍梨日辨上人が、正應元年(1288)頃に当地にあった真言宗の”御堂”を日蓮宗に改めて光雲山妙照寺として開創したといいます。当寺の鬼子母神は、法華経寺の宝蔵に安置されていたものを当山へ遷した奉安、龍神堂は身延七面山からの勧請だそうです。昭和45年に霊園を開設しています。なお、当寺を開創した日辨上人は、茂原鷲山寺・駿河常諦寺・常陸願成寺・甲斐遠照寺・相模弘行寺等を開創しています。

境内掲示による妙照寺の縁起

当山は、今を去る七六〇年前、高祖日蓮聖人の直弟子である中老僧の第三越後阿闍梨日辨上人の開基にして上人は熱原甚四郎の長男として生れ法華経弘法の為、諸国に出ず途次、当地(下総旧相馬郡小金領大井村)に来り正應元年(一二八八年)の頃より御堂と称する真言宗の寺を日蓮宗に改宗せしめ光雲山妙照寺となる。
後世文禄年中に大本山中山法華経寺の客末となり長国山妙照寺と改め法燈継承今日に及ぶ。
特に安置し奉る鬼子母神は、徳川将軍家御祈祷所中山法華経寺御宝蔵に安置せる尊像でありましたが、当山四世住職日真上人の霊感により中山より当山に、安置することを得たり尊像霊験あらたかにして、一心に祈り奉るにして、何事も成就の利益あらんこと疑いなし(境内掲示より)

「沼南町史」による妙照寺の縁起

当寺の由緒は、第十二世日通が享保十八(一七三二一)年に撰した『妙照寺由来』によって知られる。すなわち、創立は宗祖日蓮聖人の直弟子で越後阿閤梨と称した日弁上人(一二三九~一三一一)による。日弁は駿河富士郡の人で、熱原甚四郎の長子。十八歳で比叡山に修行の後、身延山の日蓮に師事して日弁と称した。弘安四(一二八一)年駿河に常諦寺を開き、また上総に鷲山寺を創めた。正応元(一二八八)年のころ、大井村に弘仁年中(八一〇~)開創の”御堂”と称する真言宗の寺の住僧を折伏して改宗し、光雲山妙照寺とした。
これが当寺の開創である。寺務は俗弟の日忍に任せ、常陸に願成寺、甲斐に遠照寺、相模に弘行寺等を開き、応長元(一三一一)年六月二十六日奥州桜村で七十三歳の生涯をとじた。遺命により遺体は大井に運んで茶毘に付し、遺骨は鷲山寺に葬られた。このため、妙照寺は鷲山寺を本寺とした。
現在、当寺域を字御堂と称するのは、日弁開創の故事にちなむもので、当寺の東方には約一三〇㎡ほどの堂趾を現存している。
また、当寺の開創により、大井村は福満寺の檀中三分の一が妙照寺の檀家となったことが、福満寺の古記録によって知られる。かくて、当寺に現存する題目板碑には、応永十(一四〇三)年、同三十二(一四二五)年、永享十二(一四四〇)年、延徳二(一四九〇)年などの建立年号がみられ、室町期を通じて弘法教化が存続していたことを傍証している。
戦国末期の文禄年中(一五九二~)、第五世の日真代に当寺は中山法華経寺の客末となり、山号を長国山と改めた。そのため、文禄三(一五九四)年七月二十日の「法華経寺四院主連署回状」には、すでに当寺の名が列せられている。また、江戸初期の慶長十一(一六〇六)年九月十三日に記録された法華経寺の「護代帳」には、外護者として大井の酒巻勘解由・坂巻八郎右衛門・太郎右衛門・六郎左衛門・彦右衛門・石原四郎兵衛・新七郎などが記載され、当時における妙照寺の檀徒代表者の名を知ることができる。
江戸中期には、延享年間(一七四四~八)第十世日達の時、庫裡と鐘楼堂とが建立された。その後、庫裡は安永二(一七七三)年に再建されたが、一〇畳の客間を三連させる七〇坪ほどの大屋に、茅葺入母屋造りの堂々たる姿を現存している。
明和五(一七六八)年に建てられた本堂(八間×六間)は、唐破風造りに鋼板葺の向拝が付けられていたが、老朽のため昭和四十五年十一月に改築された。また、山門は寛政八(一七九六)年三月の建立で、両袖を伴う堅牢な伽藍である。昭和二十五年に茅茸きを瓦葺きに改装している。鐘楼堂は延享年間の造営であるが、昭和三十年に同じく茅葺きを瓦葺きとした。梵鐘は延享時代のものが大破したので、大正八(一九一九)年に改鋳したが、大戦中の昭和十八(一九四三)年に供出したため、昭和三十六年にふたたび鋳造されている。
当寺には古くから鬼子母神と竜神が祀られている。縁起によれば、この鬼子母神はかつて徳川将軍の祈禱所である法華経寺の宝蔵に安置されていたが、妙照寺第四世日真の夢枕に立ち、法華の行者を守護せんとする誓願を告げたことにちなみ、法華経寺から請来して祀ったという。婦人の安産、小児の発育等に霊験あるといわれる。また、竜神堂には七面竜神を祀るため七面堂とも称するが、身延七面山からの勧請である。(「沼南町史」より)


妙照寺の周辺図


参考資料