法華経寺|日蓮宗大本山、市川市中山にある日蓮宗寺院

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正中山法華経寺|日蓮宗の六大本山、江戸三大鬼子母神

法華経寺の概要

日蓮宗寺院の法華経寺は、正中山と号し、日蓮宗の六大本山の一つです。法華経寺は、文永11年に太田乗明の居館に創建した本妙寺(日高上人)と、若宮領主の富木胤継(日常上人)の居館に創建した法華寺とを合寺して、永享3年(1431)頃に法華経寺と改称したといいます。江戸時代には寺領50石1斗餘の御朱印状を拝領した日蓮宗の大本山で、江戸三大鬼子母神の一だといいます。東国花の寺百ヶ寺です。

法華経寺
法華経寺の概要
山号 正中山
院号 -
寺号 法華経寺
住所 市川市中山2-10-1
宗派 日蓮宗
葬儀・墓地 -
備考 -



法華経寺の縁起

法華経寺は、文永11年に太田乗明の居館に創建した本妙寺(日高上人)と、若宮領主の富木胤継(日常上人)の居館に創建した法華寺とを合寺して、永享3年(1431)頃に法華経寺と改称したといいます。江戸時代には寺領50石1斗餘の御朱印状を拝領した日蓮宗の大本山です。

市川市教育委員会掲示による法華経寺の縁起

日蓮宗大本山法華経寺
正中山法華経寺は、祖師日蓮の足跡がみとめられる日蓮宗の霊跡寺院・大本山です。
中世、この地は八幡荘谷中郷と呼ばれ、下総国守護千葉氏の被官である富木常忍と太田乗明が館を構えていました。彼らは曽谷郷の曽谷氏とともに、日蓮に帰依してその有力な檀越となりました。時に鎌倉時代の中期、建長年間(一二四九~五五)頃のことです。
彼らの館には持仏堂が建立され、のちにそれが寺院となったのが法華経寺の濫觴です。若宮の富木氏の館は法華寺、中山の太田氏の館は本妙寺となり、当初は両寺が並びたって一寺を構成していました。この両寺が合体して法華経寺と名乗るのは、戦国時代の天文十四年(一五四五)以後のことです。
富木常忍は出家して日乗と名乗り、法華経寺の初代貫主となり、二代目は太田乗明の子日高が継ぎました。そして千葉胤貞の猶子である日祐が第三代貫主となった鎌倉末期から南北朝期ごろ、法華経寺は隆盛の時代を迎えます。千葉胤貞は当時、守護ではありませんでしたが、千葉氏の有力な一派として威をはり、下総・肥前などの土地を寄進して、日祐の後押しをしています。日祐は胤貞の亡父宗胤の遺骨を安置し名実ともに法華経寺を胤貞流千葉氏の氏寺とし、その後の法華経寺の基礎をつくりました。その後、室町時代をへて江戸時代に至ると、ひろく庶民にまで信仰される寺院となります。
法華経寺には、祖師日蓮の書いた「立正安国論」「観心本尊抄」の国宝や重要文化財をはじめとして多数の聖教(仏典)類が保管されています。これは千葉氏のもとで文筆官僚の任にあたっていた日常が熱心に整理保存に意をそそいで以来、寺内の宝蔵や坊で厳重に保管されてきた結果です。現在は境内の奥の堅牢な聖教殿で保管されており、その伝統はいまも確かに受け継がれています。
また、日蓮自筆の聖教の裏からは、鎌倉時代の古文書が発見されました。これを紙背文書といいます。これは富木常念が提供した千葉氏関係の事務書類を、裏返して著作の料紙として日蓮が使用した結果、偶然のこされたもので、歴史に残りにくい人身売買や借金の実態など、当時の東国社会の生々しい現実を知る貴重な資料となっています。
寺内にはその他、重要文化財の法華堂・祖師堂をはじめとする堂舎、絵画や古記録・古文書などの数々の文化財があります。また周辺には日蓮が鎌倉にむけて船出したという二子浦(現船橋市二子周辺)の伝説など、日蓮にまつわる伝説も豊富に残されています。
これらにより大本山としてはもちろん、さながら文化財の宝庫として、法華経寺の名は全国に知られています。(市川市教育委員会掲示より)

「稿本千葉県誌」による法華経寺の縁起

正中山法華経寺
同郡同上(東葛飾郡)中山村大字中山字和泉に在り、境内九千五百二十五坪、日蓮宗の大本山なり。寺傳に云、文永十一年太田乗明其の居館を捐て寺と為し本妙寺と號し、其の長子をして出家せしめ日高と稱し本寺の住職たらしむ、當時隣郡若宮に富木胤継と云ふ者あり、乗明と共に日蓮に帰依し、亦其の居館を捐てて一寺を創建し法華寺と號す、後両寺を併せて法華経寺と改稱せりと。法華経寺所蔵の古文書に、永享三年十二月二十四日原宮内少輔胤義其の領地谷中郷内高石神の田地を本妙寺に賈渡す證書あり、同寺の法華経寺と改稱せしは永享三年の後なるべし、徳川氏寺領五十石一斗餘を寄す、多く古文書を蔵す、又古碑三基あり。所蔵中趙橋絹本著色十六羅漢像、八曲屏風壹雙は明治三十七年二月十八日國寳に編入せらる。又塔婆(五重塔)は方三間五層にして屋根は胴板葺なり、法華堂は桁行五間、梁間四間・單層にして屋根は入母屋造・銅板葺とす、四足門の屋根は切妻造にして柿葺なり、塔婆・法華堂・四足門は共に大正五年五月特別保護建造物に編入せらる。(「稿本千葉県誌」より)


法華経寺所蔵の文化財

  • 日蓮上人筆観心本尊抄(附)添状(附)春日山蒔絵筥(国宝)
  • 日蓮上人筆立正安国論(国宝)
  • 五重塔(国重要文化財)
  • 祖師堂(国重要文化財)
  • 法華堂(国重要文化財)
  • 四足門(国重要文化財)
  • 絹本着色十六羅漢像(国重要文化財)
  • 日蓮筆遺文(国重要文化財)
  • 木造釈迦如来・多宝如来坐像(千葉県有形文化財)
  • 大本山法華経寺黒門附扁額(市有形文化財)
  • 本阿弥家分骨墓3基(市有形文化財)
  • 光悦筆扁額3面(市有形文化財)
  • 本阿弥光悦分骨墓(市有形文化財)
  • 法華経寺銅造釈迦如来坐像(市有形文化財)

法華経寺四足門(重要文化財)

四足門はもと鎌倉の愛染堂にあったものをこの地に移したと伝えられています。法華経寺では、はじめ本院の玄関門としていましたが、明治になって法華堂の現在の場所に移されました。建築年代は形式より室町時代後期と思われます。
この門はほぼ純粋な禅宗様の様式で造られ、本柱を棟近くまで延ばし、この前後に控柱を立てて、これらを海老虹梁という湾曲した腰の強い梁で繋ぐ珍しい構造です。柱の断面はやや楕円形でこれも他に例のないものです。
さらに彫刻類の装飾が多いことも特徴のひとつで、それぞれ室町時代後期に多くみられる文様や形をよく現しています。これらの装飾は全て正面を意識して造られていることから、もとは側面の両側に塀を付属させた入口門であったと考えられます。また建具は和様の板唐戸を用いて様式的な変化を持たせています。柱、虹梁(梁の一種)など主要な部材には欅、その他の部分には檜・杉・桜などを用いています。
昭和十年に解体修理が行われ、大部分の部材が新しいものと取り替えられましたが、使用可能なものは文化財の保存の意味から再用しています。(市川市教育委員会掲示より)

法華経寺法華堂(重要文化財)

法華堂は法華経寺の本堂で、釈迦・多宝両尊像を本尊としています。堂の創建は文永年間(十三世紀後半)に富木常忍が若宮の館に建立し、後にこの中山に移されたと伝えられ、銭四貫文で建てられたことから四貫堂とも呼ばれています。現在の法華堂は様式から室町時代後期に再建されたものと思われます。もとは祖師堂と同じ地盤に建っていましたが、江戸時代中期に行われた祖師堂の建替えに伴ってこの場所に移されました。
建物は桁行五間、梁間四間の小規模な五間堂で、屋根の銅板葺は江戸時代後期の改造によるもので建立当初は茅葺でした。内部は正面一間の柱位仇を大きくとった吹き放しの外陣と一室の内陣からできています。柱や須弥壇(仏像を安置する壇)の配置などからは、内陣の奥行きを大きく取ろうとした工夫が見られます。なお、外陣正面にある「妙法花経寺」の扁額(市指定文化財)は本阿弥光悦によって書かれたものです。
法華堂は禅宗様を基調としながら和様を巧みに取り入れた形式で、日蓮宗仏堂としては最古に属する重要な遺構です。(市川市教育委員会掲示より)

大本山法華経寺黒門附扁額

この門は法華経寺の総門で、全体が黒塗りとなっているため黒門と呼ばれています。建立年代は明確ではありませんが赤門(仁王門)の創建と同じ、江戸時代の初期頃と考えられます。
門の型式は高麗門(こうらいもん)と呼ばれる形式で、四角の本柱二本と丸い控柱二本で構成され、本柱の上には細長い切妻屋根を掛け、本柱と控柱の間にも一段下げて直角に切妻屋根を掛けます。もともと高麗門は城郭の外門に設けられたので板扉が付けられますが、黒門には門扉が付いた痕がなく、当初から吹き通しの門でした。
建立後、度々の修理が行われましたが、これは控柱が掘立で五〇年程度での取替えが必要なこと、屋根葺替えや塗装が主なる修理内容です。本柱など本体構造は当初の状態で残っています。
なお、正面中央に掛かる扁額は掛川城主太田資順の筆で、裏面に寛政五年(一七九三)の刻銘があり、門の附指定です。全体に彩色が施され、文字は浮彫りになっています。
如来滅後
閻浮堤内
本化菩薩
初轉法輪
法華道場
兵衛二十一年七月より十七か月を要して解体修理を施し、基礎を新たにコンクリート造に改め、控柱を取替えて従来の掘立柱を継承した。また、屋根の銅板を葺替えたほか、腐朽していた木鼻等を取替えて塗装を塗り替えた。併せて扁額の修理も施した。(大本山法華経寺市川市教育委員会掲示より)

法華経寺の周辺図


参考資料


参考資料

  • 「市川市内の寺院明細帳」