大巌寺|関東十八檀林
大巌寺の概要
浄土宗寺院の大巌寺は、龍澤山玄忠院と号します。天文20年(1551)、増上寺9世道誉貞把上人が開山となり創建しました。元和3年(1617)3月には朱印領100石を拝領した御朱印寺で、浄土宗の関東十八檀林の一つとして隆盛しました。
山号 | 龍澤山 |
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院号 | 玄忠院 |
寺号 | 大巌寺 |
住所 | 千葉市中央区大巌寺町180 |
宗派 | 浄土宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | 関東十八檀林、淑徳学園併設 |
大巌寺の縁起
大巌寺は、天文20年(1551)、千葉氏四天王の一、生実城主・原式部大夫胤栄夫妻を開基に、道誉貞把上人が開山となり創建しました。元和3年(1617)3月には朱印領100石を拝領した御朱印寺で、浄土宗の関東十八檀林の一つとして隆盛しました。
境内掲示による大巌寺の縁起
当山は山号を龍澤山、院号を玄忠院といい、天文20年(1551)、千葉氏四天王の一、生実城主・原式部大夫胤栄夫妻を開基に、道誉貞把上人が開山となり創建された学問寺であって、江戸時代には関東十八檀林の一つとして栄えた。寺伝によれば、永禄3年(1560)に堂塔伽藍が整い、鎮守として東に愛宕、西に鷲明神、北に富士、客殿の間に天照皇太神等を勧請した。この頃学寮は四十余りあったといわれ、寺領七十貫を有していた。境内の林中に大沢があり、昔から「龍が澤」と呼ばれていたので、当寺を龍澤道場(精舎)と名づけ、のち山号とした。これよりさき天文年中、下総国千葉郡生実郷のあたりを布教していた道誉上人は、かの瀧が澤の水中に入り、念仏すること二十一日。ときに阿弥陀仏が金光を放って現れたつぶさに一宗の奥義を授けたという。この霊告のゆえをもって、浄土宗では上人を道誉流伝法の祖とし、当寺をその根本道場とした。
永禄12年(1569)5月には、東国戦乱の折から領主より寺門清安のため禁制(札)をうけ、天正5年(1577)、二世・安誉虎角上人代に、胤栄より寺領並びに屋敷等の安堵状をもらっている。虎角上人は徳川家康とも親交があり、関東の寺院のなかではもっとも早い時期に家康と関係をもっている。このことは天正18年(1590)5月23日付および25日付の家康書状、同年7月28日付の家康寺領安堵状など、いずれも家康の江戸入国以前の諸史料の存在が雄弁に語っている。原氏滅亡後、幕府の祈願寺となり、元和3年(1617)3月には朱印百石が寄せられた。
虎角上人のあと、三世・雄誉霊厳上人、四世・源誉随流上人、五世・典誉潮流上人など名僧が相次ぐにともなって、全国各地より修学を志す若い学徒が集まり、檀林として隆盛をきわめた。しかし、その後は増上寺をはじめとする江戸の檀林の盛況に比し、徐々に衰微の傾向をたどっていったもようである。江戸時代には県内に末寺二十余ヶ寺を有する地方本山でもあった。明治2年(1869)2月には、他の檀林とともに勅願所の綸旨を賜っている。
久しく荒廃していたが、第二次世界大戦後、中興六十世・謙誉良信上人の代になって復興をみ、こんにちにいたっている。(境内掲示より)
「千葉市史」による大巌寺の縁起
大巌寺
滝沢山玄忠院大巖寺は浄土宗知恩院の末寺で、本尊は阿弥陀如来である。千葉氏の一族、小弓城主原式部大夫胤栄及びその夫人の龍沢尼(盈誉龍沢利貞と追号される)が導誉上人を開基に迎え、天文十七年(一玉四八)-天文二十年の説もある-浄土の教えを広める道場を創設したのが、当山の創建といわれる。創建にあたり、原氏は龍ケ沢一帯を当山に寄進しているが、更に天正五年(一五七七)寺屋敷として百石を保障している。江戸に居をかまえた徳川家康も深く当山に帰依し、あらためて、寺領百石を寄進するほか、浄土宗の僧侶養成機関としての地位を当山に与えている。
永禄二年(一五五九)創建に着手し、五年の歳月を要して完成した壮厳な堂塔は享保三年(一七一八)の火災によって焼失したが、享保十二年(一七二七)再建に着手して完成したのが現在の建物である。本堂は一三間四方、庫裡は間口一二間奥行一〇間半、山門は間口五間半、本堂正面に掲げられている扁額の「大巌寺」の文字は桃園天皇の御親筆と伝えられている。
代々徳川家の崇敬を受け、葵紋散しの大襖子、家康の朱印状など、徳川家ゆかりの品が残されており、歴代住職は将軍の命により任命されていた。そして、明治二年、勅願所とする旨の御沙汰が下されている。天国の宝剣、胤栄夫人愛蔵の阿弥陀仏及び古鏡、正中二年(一三二五)源家重の銘入りの鉦、歴代住職の書蹟等の古文書などの寺宝が多い。
境内の裏山は通称「鵜の森」と呼ばれる鵜の群生地で、県指定の天然記念物であったが、寺林の伐採や東京湾の埋立てや汚染のため、鵜は姿を消している。(「千葉市史」より)
「下総国旧事考」による大巌寺の縁起
大巌寺
大森村在。永禄三年。式部大輔原胤栄。其母滝澤禅尼追福為創建。僧道誉貞把開所也。十八檀林之一為。域中胤栄墓碑有。于墳墓志稿載。寺領百石。天正十九年辛卯十一月付。(「下総国旧事考」より)
大巌寺にある不動明王の縁起
当寺の開山道誉貞把上人(増上寺九世)の不動明王にまつわる利生霊験譚は広く人口に橧灸している。道誉上人は和泉国の生れで13歳で出家したが、生来愚鈍であった。しかし道心深く、17歳のとき関東修学を志し、下総国飯沼弘経寺で修行を積み帰郷した。ところが上人が高座に登って説法を始めると、ことばに詰まり、顔を真赤にして高座からころがり落ちたので、聴衆はこの様子に落たんし、中には嘲笑する者さえでる始末であった。そこで上人は再び研鑽を志し関東に向った。その旅の途中、かねてから成田不動尊の霊験あらたかなることを聞いていたので、参籠を企て二十一日間(百日ともいう)己が鈍才が改まるようにと断食をなし、心から祈願をした。満願の夜、夢に不動明王が現れ、巳切れには利剣を、左手にはさびた剣をさげて、「汝もし志願を達せんとするならば、剣を呑了せよ、この二剣のうち何れを呑まんとするや」と問うた。上人が「利剣を呑まん」と答えると、不動明王は利剣を振って上人ののどを切り裂いた。上人は一升あまりも血を吐いて悶絶してしまった。夜が明けて寺僧が参籠堂の前を通りかかると、中に衣を血に染めて倒れている道誉上人の姿を発見した。寺僧は大いに驚き、人を呼んで上人を介抱し、湯薬を与えて手当てを施した。寺僧は上人より事情を聞き、今更のように不動明王の霊験に驚き、壇上の本尊を仰ぐと、その剣に血がついていた。こののち上人は、生まれかわったように賢くなり、弁舌爽やかで、説法を聞く者は皆ことごとく深い感銘を受けた。こうした因縁から、道誉上人は当寺創建後、成田不動尊の分身を勧請して安置したといわれ、「開運増慧」の不動尊として庶民の信仰を集めこんにちにいたっている。現在、毎月28日の縁日に不動講がもたれ、とくに節分会および正五九の大祭には参詣者で賑わう。(境内掲示より)
大巌寺所蔵の文化財
- 大巌寺本堂(国登録文化財)
- 大巌寺書院(国登録文化財)
大巌寺の周辺図