境稲荷神社|台東区池之端の神社

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境稲荷神社|忍が岡と向が岡の境に鎮座

境稲荷神社の概要

境稲荷神社は、台東区池之端にある稲荷神社です。境稲荷神社は、文明年間(1469-1487)足利九代将軍義尚公により創祀されたと伝えられます。忍が岡と向が岡の境に鎮座していることから境稲荷と称されていたといい、明治28年湯島切通坂の宝剣稲荷を合祀したといいます。

境稲荷神社
境稲荷神社の概要
社号 境稲荷神社
祭神 倉稲魂命
相殿 宝剣稲荷大神
境内社 -
住所 台東区池之端1-6-13
例祭日 9月20日、歳旦祭1月1日、朔旦祭毎月1日、大祓6月29日・12月29日
備考 -



境稲荷神社の由緒

境稲荷神社は、文明年間(1469-1487)足利九代将軍義尚公により創祀されたと伝えられます。忍が岡と向が岡の境に鎮座していることから境稲荷と称されていたといい、明治28年湯島切通坂の宝剣稲荷を合祀したといいます。

境内掲示による境稲荷神社の由緒

文明年間足利九代将軍義尚公により創祀されたと伝えられ忍が岡と向が岡の境に鎮座するところから境稲荷と称され両村の総鎮守であった。
寛延3年隣地岡上の松平邸より出火した火災により社殿をはじめ義尚公自筆の扁額や重宝古記録とも焼失したが別当慈海によって再建された。
現参道口鳥居の扁額はこの時拝殿に奉納された半井大和守筆の額字を写したものである。
古歌「忍ぶ丘向ふる岡の境なる神のやしろは松の下谷」
その後明治28年湯島切通坂鎮座の宝剣稲荷を合祀している。
昭和20年3月戦禍を受け現在の本殿拝殿鳥居並に社務所は平成5年の造営である。
境内本殿裏の井戸はその昔の当社別当原泉山三光寺の名称からも非常に古くからの湧水であることが知られ江戸の地誌にも「弁慶鏡ヶ井」と在り名水をもって知られている。(境稲荷神社境内掲示より)

御府内寺社備考による境稲荷神社の由緒

下谷茅町2丁目 境稲荷、社除地間口7間1尺南裏行3間2尺北裏行1間4尺外借地16坪
本社、拝殿、神体。
当社者文明年中足利義尚公、忍岡・向岡両村之境ニ稲荷社御建立と申伝候。度々類焼記録等一切無御座相分不申候。
祭礼、2月2ノ午ノ日。
石鳥居、1基。
拝殿額字、忍岡向岡。総鎮守境稲荷社、筆者不知。
氏子町、茅町1丁目2丁目御数奇屋町ニ候。
別当修験原泉山本隆院、聖護院松氷川大乗院触下往古者原泉山三光寺と申候由、寛永年中中興秀山と申候者、本多家之人ニ而本隆院と号し候。以上丙戌書上。
境稲荷、旧社のよし。祭礼毎年2月後の午日。千年ハ隔年に祭礼練物等いたすよし。其町々ハ茅町12丁目・御数奇屋町・上野黒門町・湯島講安寺門前、同稱仰院門前、池之端七軒町・同断5ヶ寺門前・根津宮水町・同門前町。寛永7年茅町町屋となりし時鎮守とす。江戸図説(御府内寺社備考より)


境稲荷神社所蔵の文化財

  • 弁慶鏡ヶ井戸

弁慶鏡ヶ井戸

境稲荷神社と弁慶鏡ヶ井戸
境稲荷神社の創建年代は不明だが、当地の伝承によれば、文明年間(一四六九~一四八六)に室町幕府第九代将軍足利義尚が再建したという。『境稲荷』の社名は、この付近が忍ヶ岡(上野台地)と向ヶ岡(本郷台地)の境であることに由来し、かつての茅町(現、池之端一・二丁目の一部)の鎮守として信仰をあつめている。
社殿北側の井戸は、源義経とその従者が奥州へ向かう途中に弁慶が見つけ、一行ののどをうつおしたと伝え、『江戸志』など江戸時代の史料にも名水として記録がある。一時埋め戻したが、昭和一五年に再び掘り出し、とくに昭和二〇年の東京大空襲などでは多くの被災者を飢渇から救った。井戸脇の石碑は掘り出した際の記念碑で、造立者の中には当地に住んでいた画伯横山大観の名も見える。(台東区教育委員会掲示より)

境稲荷神社の周辺図