浄智寺。鎌倉市山ノ内にある臨済宗円覚寺派寺院、鎌倉五山の第四位

猫の足あとによる神奈川県寺社案内

浄智寺。鎌倉五山の第四位、鎌倉・江の島七福神の布袋尊

浄智寺の概要

臨済宗円覚寺派寺院の浄智寺は、金寶山と号します。北条時頼の孫師時が開基となり、父の宗政の没後に創建したといいます。開山に招かれた真応禅師南州宏海が大任すぎるとして大休正念を勧請、大休正念はその亡師である冗庵普寧を開山にたてたことから、冗庵普寧と仏源禅師大休正念を請待開山、応禅師南州宏海を準開山とします。高峰顕日(塔所正統庵)・夢窓疎石・清拙正澄(塔所禅居院)・埜仙梵傷・古先印元(長寿寺開山)などの高僧が当寺住持を務め、多くの塔頭を擁し興隆したといいます。鎌倉五山の第四位、鎌倉三十三観音霊場の31番、鎌倉二十四地蔵霊場12番、鎌倉・江の島七福神の布袋尊となっています。また、境内には鎌倉十井の一つである甘露の井があります。

浄智寺
浄智寺の概要
山号 金寶山
院号 -
寺号 浄智寺
本尊 釈迦牟尼仏
住所 鎌倉市山ノ内1402
宗派 臨済宗円覚寺派
葬儀・墓地 -
備考 鎌倉五山の第四位、鎌倉三十三観音霊場31番、鎌倉二十四地蔵霊場12番、鎌倉・江の島七福神の布袋尊



浄智寺の縁起

浄智寺は、弘安5年(1282年)、北条時頼の孫師時が開基となり、父の宗政の没後に創建したといいます。開山に招かれた真応禅師南州宏海が大任すぎるとして大休正念を勧請、大休正念はその亡師である冗庵普寧を開山にたてたことから、冗庵普寧と仏源禅師大休正念を請待開山、応禅師南州宏海を準開山とします。高峰顕日(塔所正統庵)・夢窓疎石・清拙正澄(塔所禅居院)・埜仙梵傷・古先印元(長寿寺開山)などの高僧が当寺住持を務め、多くの塔頭を擁し興隆したといいます。鎌倉五山の第四位、鎌倉三十三観音霊場の31番、鎌倉二十四地蔵霊場12番、江の島鎌倉七福神の布袋尊となっています。

境内掲示による浄智寺の縁起

鎌倉五山の第四位で山号を金宝山といい北条時頼の孫師時が父の宗政の没後弘安4年(1281)以後に建てたといわれています。
開山は宋僧の兀庵普寧とされ、境内には鎌倉十井の一つである甘露の井があります。(境内掲示より)

浄智寺栞による浄智寺の縁起

中国の名僧冗庵普寧と仏源禅師大休正念(請待開山)、および日本僧の真応禅師南州宏海(準開山)の三人が名をつらねている。
はじめ、開山に招かれた南州宏海が、大任すぎるといって身をひき、師の大休正念を請じて入仏供養の儀式をおこない、すでに世を去っていた師僧の冗庵普寧を開山にたてたため、複雑な形になったらしい。南州宏海は嘉元元年(1303)に死去し、以後、高峰顕日(塔所正統庵)・夢窓疎石・清拙正澄(塔所禅居院)・埜仙梵傷・古先印元(長寿寺開山)などの高僧がつぎつぎに住職に迎えられている。 延文元年(1356)の火災で、初期の伽藍をうしなうが室町時代ごろには、方丈・書院・法堂・五百羅漢像を安置した三門・外門・行堂・維那寮・僧堂などの主要な建物、あるいは蔵雲庵・正紹庵・正源庵・竜渕山真際精舎・楞伽院・正覚庵・大円庵・同証庵・正印庵・興福院・福正庵といった塔頭が建ちそろっていた。
戦国時代から江戸時代にはいると、鎌倉は農漁村になってさびれ、寺院の多くもしだいにかつての繁栄ぶりをうしなう。江戸時代の後期ごろには、仏殿・方丈・鐘楼・外門・惣門そして塔頭の中の八院などがあったが、これらの建物は大正12年の関東大震災でほとんど倒潰した。現在は三門・二階に鐘をさげた楼門や新しい仏殿の曇華殿・方丈・客殿などが伽藍を形造っている。(浄智寺栞より)


浄智寺所蔵の文化財

  • 浄智寺境内(国史跡)
  • 木造三世仏坐像(神奈川県重要文化財)
  • 木造達磨大師像
  • 木造大休正念像
  • 木造南洲宏海像
  • 木造観音菩薩立像
  • 木造地蔵坐像(重要文化財・鎌倉市指定文化財)
  • 木造韋駄天立像(鎌倉市指定文化財)
  • 西来庵修造勧進状(重要文化財)
  • 仏殿横のコウヤマキ(鎌倉市指定文化財)
  • 鐘楼門前のビャクシン(鎌倉市指定文化財)

浄智寺境内

浄智寺境内
鎌倉五山第四位、臨済宗円覚寺派、金寶山浄智寺は、弘安4年(1281)北条時頼の三男宗政が29歳で没後、間もなく宗政夫人と要衝の師時を開基にして宗政の菩提を弔うため創建されました。
中国、僧の名僧、兀庵普寧と大休正念、及び日本僧南洲宏海の三人が開山になっています。これは、当初開山に招かれた宏海が、任重しと身をひき、師の大休正念を迎えて入仏供養をおこない、すでに世を去っていた師僧の兀庵普寧を開山としたためです。
創建当初の伽藍は、外門、山門、行堂、仏殿、方丈、庫裡等を備え、塔頭は十一院に及んだということです。
永い間には、たたずまいも変化し、現在は看門寮、山門、鐘楼門、仏殿、書院、方丈、隠寮、庫裡等の堂宇が柏槙や杉立ちの中に点在しています。
境内は、周囲を緑の山々にかこまれ、昔ながらの、広大な寺域を残しており、地理的環境と鎌倉五山の伽藍遺構を後世に伝えるため、国の史跡として保護されています。(神奈川県教育委員会掲示より)

木造三世仏坐像(神奈川県重要文化財)

本尊として仏殿にまつる。向かって左から阿弥陀・釈迦・弥勤の各如来で、過去・現在・未来の時を代表する。十五世紀半ばごろに再興された像で、鎌倉地方に多い衣の裾を台座に長くたらした様式の典型的な作品。(浄智寺栞より)

木造地蔵坐像(重要文化財・鎌倉市指定文化財)

鎌倉国宝館に出陳中。右手に錫杖、左手に宝珠を持って安坐する像で、鎌倉時代後期の作品。(浄智寺栞より)

木造韋駄天駄天立像(重要文化財・鎌倉市指定文化財、鎌倉国宝館に出陳中)

韋駄天は寒建陀・建陀とも呼ばれ、天軍の将で走力にすぐれ、邪神を消除して釈迦の遺法を護持するといわれる。甲胃を着け、合掌した腕の上に宝棒を横たえる。顔や両手などは江戸時代に補われたらしいが、胴部は古く十四世紀ごろの作品である。冑の模様には、土をねって型にいれ貼りつけて刺繍に似た効果をだす土紋が使われている。(浄智寺栞より)

西来庵修造勧進状(重要文化財、鎌倉国宝館に出陳中)

西来庵建長寺開山大覚寺禅師蘭渓道隆の塔所である、同庵が荒廃したのを歎き、建長寺に住したことのある禅僧玉隠英が、修造の資材をあつめるため、英正13年(1516)に書いたもの。(浄智寺栞より)


浄智寺の周辺図