安楽寺。比企郡吉見町御所にある真言宗智山派寺院

猫の足あとによる埼玉県寺社案内

安楽寺。坂上田村麻呂が開基、坂東三十三ヶ所観音霊場

安楽寺の概要

真言宗智山派寺院の安楽寺は、岩殿山光明院と号します。安楽寺は、大同元年(806)に坂上田村麻呂が開基となり伽藍を建立、その後当地周辺を領有していた源範頼が三重大塔、大講堂を建立したといいます。本尊の聖観世音菩薩像は、坂東三十三ヶ所観音霊場12番で吉見観音と称されている他、大日如来像は彩の国武州路十二支霊場の申年霊場、また関東八十八ヶ所霊場75番、東国花の寺百ヶ寺中武蔵七十二薬師62番、武州八十八所霊場36番です。
なお、三重塔は埼玉県内には行田市長野の成就院川口市西立野西福寺と当寺の三基しかないといいます。

安楽寺本堂
安楽寺の概要
山号 岩殿山
院号 光明院
寺号 安楽寺
本尊 聖観世音菩薩像
住所 比企郡吉見町御所374
宗派 真言宗智山派
葬儀・墓地 -
備考 -



安楽寺の縁起

安楽寺は、大同元年(806)に坂上田村麻呂が開基となり伽藍を建立、その後当地周辺を領有していた源範頼が三重大塔、大講堂を建立したといいます。

新編武蔵風土記稿による安楽寺の縁起

(御所村)
觀音堂
坂東十一番の札所なり、坐像にて長一尺五寸許、行基の作と云、或書云吉見次郎賴綱、比企の岩殿に擬して起立せしと、されど縁起によれば、源範頼平治の後當所に来り、三河守に任じて吉見の庄を領せし頃、所領の半を寄附し諸堂を建立すと云り、又田村麻呂の開基と云は、比企郡なる岩殿觀音の傳へを、引付しにて取に足らず、とにかく慥なることにはあらず。
別當安楽寺
息障院の末、岩殿山光明院と號せり、本尊大日を安ず、中興開山を果慶と云、開基依頼凡二百年ばかりと云。
鍾樓。大同年中の鐘は、天文の争亂に破損し、元和五年再造せしに、正保三年又破損して、安永四年新に再造すと云。
三重塔。釋迦を安ず。
仁王門。
經堂。薬師を安ず。
常念佛堂。彌陀を安ず。
薬師堂。
大日堂。岩窟にあり、土人岩戸と呼ぶ。
山王社。
時鐘。安永三年の鑄造なり。(新編武蔵風土記稿より)

吉見町・埼玉県掲示による安楽寺の縁起

吉見観音(安楽寺)
岩殿山安楽寺は坂東十一番札所で、真言宗智山派に属し、古くから「吉見観音」の名で親しまれている。
今から約一、三〇〇年ほど前、行基菩薩が岩窟に観音像を安置したのがはじまりと言われている。
平治の乱後には、源範頼がこの地を領するようになり、本堂と三重塔を建立したとつたえられるが、天文年間(約四五〇年前)の上杉憲政と北条氏康の松山城合戦に際し、すべての伽藍は焼失してしまった。
現在の本堂は寛文元年(約三四〇年前)に再建されたものであり、五間堂の平面をもつ密教本堂で、江戸時代前期の建築様式を伝える貴重な遺構である。また、堂内の欄間には左甚五郎の作といわれる「野荒しの虎」も納められている。
三重塔は本堂よりも古い寛永年間の創建であり、全体的に簡素な意匠ながら和様様式で統一された江戸時代初期の貴重な遺構である。
仁王門は元禄十五年(約三〇〇年前)に再建された三棟造りの八脚門という建築様式をもち、内部に仁王像二体を安置する。
本堂・三重塔・仁王門は町指定の文化財になっている。(吉見町・埼玉県掲示より)

境内石碑による安楽寺の縁起

仁王門金剛力士解体大修理記念碑
岩殿山安楽寺は真言宗に属し、本尊は行基菩薩の御作と伝える聖観世音菩薩であります。
大同元年(八〇六)坂上田村麻呂は霊地と定めて伽藍を建立し、当山の基を開かれました。又源範頼の外護に依り三重大塔、大講堂が建立され、善美を尽したと伝えられております。しかし天文の初め、兵火の為悉く灰燼と化しました。
現在の三重塔は寛永年間(一六二四~一六四三)中興の祖法印杲鏡により、本堂は寛文元年(一六六一)弟子秀慶により再建されました。
仁王門、金剛力士は元禄十五年(一七〇二)法印賢秀により再建されました。建築様式は、当代辭転害門と同じ三棟造りの数少ない遺構です。(境内石碑より)


安楽寺所蔵の文化財

  • 安楽寺本堂(埼玉県指定有形文化財)
  • 安楽寺三重塔(埼玉県指定有形文化財)
  • 安楽寺仁王門・仁王像(埼玉県指定有形文化財)

安楽寺の周辺図