立原諏訪神社。寄居町立原の神社

猫の足あとによる埼玉県寺社案内

立原諏訪神社。日尾城主諏訪部宗右衛門定吉が鉢形城内に勧請

立原諏訪神社の概要

立原諏訪神社は、寄居町立原にある神社です。立原諏訪神社は、日尾城主諏訪部宗右衛門定吉が鉢形誠北条氏の寄り騎として鉢形城へ出仕した際、氏神諏訪明神を三ノ廓の虎口に勧請しています。鉢形城は天正18年(1590)に落城、諏訪部氏は相模国に落ちたため、立原の村民が新たに社殿を造営、立原の鎮守として祀ったといいます。

立原諏訪神社
立原諏訪神社の概要
社号 諏訪神社
祭神 建御名方命
相殿 誉田別命
境内社 手長男社、諏訪社、大黒天、庚申塔
祭日 手長祭1月19日、春祭り3月7日、厄神祓い7月20日、観月祭9月15日、秋祭り10月17日
住所 寄居町立原2701
備考 -



立原諏訪神社の由緒

立原諏訪神社は、日尾城主諏訪部宗右衛門定吉が鉢形誠北条氏の寄り騎として鉢形城へ出仕した際、氏神諏訪明神を三ノ廓の虎口に勧請しています。鉢形城は天正18年(1590)に落城、諏訪部氏は相模国に落ちたため、立原の村民が新たに社殿を造営、立原の鎮守として祀ったといいます。

境内掲示による立原諏訪神社の由緒

諏訪神社は、武州卯日尾城主(小鹿野町)諏訪部遠江守が鉢形城の家老となって出仕したとき、信州にある諏訪神社を守護氏神として分祀奉斎しました。
やがて天正18年(1590年)鉢形城の落城により、この近辺から北條氏の家臣たちが落ちていき、人々も少なくなりました。しかし城下の立原の人たちは鎮守様と崇敬し、館の跡を社地として今日の神社を造営したものです。
本殿は宝暦年間、その他の建造物は天保年間に造営されていて、年に三度の大祭を中心に、人々の心のよりどころとなっています。
なんどかの台風にあいましたが、空堀御手洗池に深い面影を落している欅の大木は、400年にわたる歴史の重みを静かに語りかけているようでもあります。
祭神は建御名方命、相殿に誉田別命が祀られています。これは明治42年萩和田の八幡神社が合祀されたものです。(寄居町・埼玉県掲示より)

新編武蔵風土記稿による立原諏訪神社の由緒

(男衾郡白岩村)
諏訪社
城蹟諏訪曲輪にあり、社前に御手洗池あり、折原村神主相馬播磨持、(新編武蔵風土記稿より)

「埼玉の神社」による立原諏訪神社の由緒

諏訪神社<寄居町立原二四六(立原字諏訪)>
当社は戦国期、北武蔵最大の規模を誇った鉢形城の城跡に鎮座している。鉢形城は天然の要害を利用して築城した平山城で、城の北面は荒川に浸食された絶壁、東面の搦手は深沢川の急峻な谷、南面の大手は堀で車山を配していた。城主は、文明年間(一四六九-八七)に長尾氏から扇谷上杉氏へ、更に永禄年間(一五五八-七〇)に北条氏へと、戦乱の中で交替している。また、現在残る本廓・二ノ廓二三ノ廓・諏訪曲・秩父曲・逸見曲などの構築は、北条氏邦の手によるといわれる。
当社の創建は、日尾城(秩父郡小鹿野町)城主である諏訪部宗右衛門定吉が鉢形誠北条氏の寄り騎として出仕した時、日ごろから氏神として崇敬する諏訪大明神を城内に勧請し、城の鎮守としたことによる。勧請した場所は、三ノ廓の「虎口」で、城兵は出陣の際、戦勝祈願をしたと伝える。ちなみに、当社の古来からの神宝は、石製の「薙鎌」である。
天正十八年(一五九〇)鉢形城は前田利家以下五万の大軍に攻撃され落城したため、諏訪部氏は相模国に落ち当社を祀る者は途絶えた。しかし、鉢形城下の立原の村人は、たとえ敗れたとはいえ多くの城兵が崇敬した社が荒廃するのは、見るに忍びないとの至情から、新たに社殿を造営し、祭祀を復興したと伝える。(「埼玉の神社」より)


立原諏訪神社の周辺図