塚田三嶋神社。寄居町赤浜の神社

猫の足あとによる埼玉県寺社案内

塚田三嶋神社。延喜式内社、旧男衾郡の総鎮守

塚田三嶋神社の概要

塚田三嶋神社は、寄居町赤浜にある神社です。塚田三嶋神社の創建年代等は不詳ながら、当地には鎌倉街道上道が通り、鎌倉幕府の崇敬をうけた三嶋大社を勧請していることから、鎌倉時代に当地の土豪が勧請したのではないかとも推定されています。当地は、鎌倉街道の交通が盛んだった頃は「塚田千軒町」と呼ばれるほど栄え、当社に奉納された応永2年(1395)銘の鰐口や、鴨川清澄寺にある明徳3年(1392)の銅鐘などから、室町時代前期には、赤浜とは別村の宿駅でした。その後宿駅は廃れ、江戸期には赤浜村小名塚田の鎮守として祀られていました。

塚田三嶋神社
塚田三嶋神社の概要
社号 三嶋神社
祭神 大山祇命、木花開耶姫命、少彦名命
相殿 -
境内社 稲荷社、浅間神社、琴平社・天満社・八坂社・神明社合殿
祭日 2月初午祭、例祭3月27日、八坂祭7月25日、秋祭り10月17日
住所 寄居町赤浜1973
備考 -



塚田三嶋神社の由緒

塚田三嶋神社の創建年代等は不詳ながら、当地には鎌倉街道上道が通り、鎌倉幕府の崇敬をうけた三嶋大社を勧請していることから、鎌倉時代に当地の土豪が勧請したのではないかとも推定されています。当地は、鎌倉街道の交通が盛んだった頃は「塚田千軒町」と呼ばれるほど栄え、当社に奉納された応永2年(1395)銘の鰐口や、鴨川清澄寺にある明徳3年(1392)の銅鐘などから、室町時代前期には、赤浜とは別村の宿駅でした。その後宿駅は廃れ、江戸期には赤浜村小名塚田の鎮守として祀られていました。

新編武蔵風土記稿による塚田三嶋神社の由緒

(男衾郡赤濱村)
小名塚田
古別に村落をなせしとぞ、鎌倉繁榮の頃は宿驛を置し地ならんと云、既に當所三嶋社應永二年鰐口の銘に、武蔵國男衾郡塚田宿と彫たり、前に云鎌倉の古街道はこゝに殘れり、
三島社
小名塚田にあり、民戸十八軒の鎮守にて、其氏子のものゝ持とす、當社に古き鰐口あり、其圖上に出す、(新編武蔵風土記稿より)

「埼玉の神社」による塚田三嶋神社の由緒

三嶋神社<寄居町赤浜一九四三(赤浜字後塚田)>
荒川右岸に位置する塚田の地は、『風土記稿』に赤浜村の小名の一つとして載せられており、「古別に村落をなせしとぞ、鎌倉繁栄の頃は宿駅を置し地ならんと云、既に当所三嶋社応永二年(一三九五)鰐口の銘に、武蔵国男衾郡塚田宿と彫たり、前に云鎌倉の古街道は、ここに残れり」と記されている。また「塚田は鎌倉街道の宿駅として栄え、塚田千軒町の名で呼ばれていた」との口碑も残る。
当社の創建は、その立地から考えると、鎌倉幕府の開設以来、幕府から特別の崇敬と保護を受けた伊豆の三嶋大社の神を信仰した当地の土豪が行ったのであろう。当地は、塚田千軒宿と呼ばれた大規模な宿駅があり、鎌倉街道の要衝であったことから、ここを固めた土豪と幕府とは深い結び付きがあったと考えられる。また、その土豪が実力をつけるに至った背景には、荒川の川砂を利用して鋳物を製造する鋳物師集団が当地に存在していたことが挙げられよう。鋳物師集団の活動の足跡については、鎌倉期は明らかではないが、安房国清澄寺の明徳三年(一三九二)の銅鐘に「大工武州塚田道禅」と見え、南北朝期の活動が知られる。当社に奉納された鰐口(径一九・九センチメートル)もその年紀から当地の鋳物師によって作られたものであろう。ちなみに、地内では多量の金糞が発見されているほか、荒川対岸の黒田では「たたら」と呼ばれる製鉄溶鉱炉の跡も発掘されている。(「埼玉の神社」より)


塚田三嶋神社所蔵の文化財

  • 鰐口一口(埼玉県指定文化財)
  • 塚田三嶋神社のヤブツバキ(町指定天然記念物)

鰐口一口

この鰐口は、鋳銅製で直径一九・五cm、厚さ六・九cmを測り、上部左右に耳(釣手)、中央両脇に目を配置し、下半部側面には唇状の張り出しがめぐる。また、皷面の膨らみが低平で、肩の張りも水平に近く、目や唇も薄く造られており、総じて古格を示している。
皷面外区の左右に、『武蔵國男衾郡塚田宿三嶋宮鰐口 應永二年乙亥三月廿七日』の銘文が刻まれており、この銘文から、中世に鎌倉街道上道の宿駅であった塚田宿の三嶋神社に伝来したもので、応永二年(一三九五)に奉納されたこと、当時すでに塚田が「宿」と呼ばれる集落を形成していたことなどが分かる。
さらに、当時この地に「道禅」を代表とする塚田鋳物師の存在が知られており、この鰐口も様式・技法等から道禅もしくはその工房によるものと考えられる。
この鰐口は、県内にある室町初期の稀少なものの一つであり、室町期の形式を確立しようとした基準的作例といえる。(埼玉県教育委員会・寄居町教育委員会掲示より)

塚田三嶋神社の周辺図