別所八剣神社。比企郡ときがわ町別所の神社

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別所八剣神社。経木前司吉信の霊を祀っていた社

別所八剣神社の概要

別所八剣神社は、比企郡ときがわ町別所にある神社です。別所八剣神社の創建年代等は不詳ながら、天正16年(1588年)の棟札では、経木前司吉信の霊を祀り、加藤隼人宗正再建したといいます。加藤隼人宗正は、源義賢・木曾義仲の家臣団で当地に土着した加藤家の末裔ではないかと、新編武蔵風土記稿で記しています。かつては天王山の山上に祀られていましたが、いつの頃からか山麓の当地へ遷座、その理由は「当地生産する口籠が、白い物を嫌う明神様の自に触れては畏れ多い」からだと伝えています。明治初期までは、祭礼に際して神体の丸石を納めた神輿を天王山まで担ぎ上げていたといいます。

別所八剣神社
別所八剣神社の概要
社号 八剣神社
祭神 日本武尊
相殿 -
境内社 八坂神社・白山神社、富士浅間神社
祭日 例大祭11月3日
住所 比企郡ときがわ町別所21
備考 -



別所八剣神社の由緒

別所八剣神社の創建年代等は不詳ながら、天正16年(1588年)の棟札では、経木前司吉信の霊を祀り、加藤隼人宗正再建したといいます。加藤隼人宗正は、源義賢・木曾義仲の家臣団で当地に土着した加藤家の末裔ではないかと、新編武蔵風土記稿で記しています。かつては天王山の山上に祀られていましたが、いつの頃からか山麓の当地へ遷座、その理由は「当地生産する口籠が、白い物を嫌う明神様の自に触れては畏れ多い」からだと伝えています。明治初期までは、祭礼に際して神体の丸石を納めた神輿を天王山まで担ぎ上げていたといいます。

新編武蔵風土記稿による別所八剣神社の由緒

(別所村)
八劔明神社
村の鎮守にて月窓寺の持なり、當社は經木前司吉信と云し人の靈を祀りし由、天正十六年の棟札に記せり、此吉信が事蹟年代等詳ならず、思ふに埼玉郡に常木村あり、文字は違ひたれど、もしくは彼村を指揮せし人なるも知るべからず、又此社造立の年歴も定かならざれど、天正の棟札に再建の由見ゆれば、古社たることは論なし、棟札の文左の如し、
此に記せし加藤隼人宗正も、いかなる人なりしにや、其傳を失へり、按に田中村の舊家東吉が家系に帶刀先生義賢討れし後、其家名の此邊に落来りて、住するもの八人あり、其内に加藤内蔵助貞明と云もの見えたり、宗正は此人の子孫なるにや、今腰越村に加藤氏の土民あれど、是も先祖のこと詳ならず、(新編武蔵風土記稿より)

「埼玉の神社」による別所八剣神社の由緒

八剣神社<都幾川村別所二一(別所字森ノ東)>
当社の創祀年代については明らかではない。『風土記稿』別所村の項に載る棟札には「(表)奉建立劔大明神 御宮殿 諸願 天正十六年 戊子十一月吉祥日 本 加藤隼人」「(裏)此明神経木前司吉信公現劔明神給也(中略)別当都幾山月窓寺 加藤隼人宗正中興」とあり、経木前司吉信を祀った旨が記されているが、その来歴は不明である。
また、同村の西平にある萩日吉神社にかかわる伝承に、大蔵館の戦に敗れた源義賢の家臣らが落武者となってその付近に土着し、義賢やその子に当たる木曾義仲の霊を鎮めるため、天福元年(一二三三)に同社に流鏑馬の神事を奉納したといい、それらの落武者の一人に加藤氏の名が見える。『風土記稿』では、棟札に記す加藤隼人宗正はこの加藤氏の子孫ではないかとの推測をしている。
口碑によれば、元来明神様(当社)は地内の北方にある天王山(標高二五二メートル)の地に祀られていたが、氏子の間で生産する口籠が、白い物を嫌う明神様の自に触れてはおそれ多いので、氏子区内を一望できる山上から麓の現在地に降ろしたという。
口籠とは馬の口にはめる道具で、その材料に用いる竹の平を並べて干す様が一面真っ白に見えることを明神様は嫌ったのである。その遷座の年代は伝えていないが、明治の初めまでは祭礼の度に神体の丸石を納めた神輿を天王山まで担ぎ上げていたとの興味深い話が残されている。(「埼玉の神社」より)


別所八剣神社の周辺図


参考資料

  • 「新編武蔵風土記稿」
  • 「埼玉の神社」(埼玉県神社庁)