柿木女體神社。草加市柿木町の神社

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柿木女體神社。筑波の女体神社を勧請

柿木女體神社の概要

柿木女體神社は、草加市柿木町にある女體神社です。柿木女體神社は、天正3年(1575)に豊田城(茨城県結城郡石下町豊田)が攻め落とされた城主豊田治親の夫人と子供が当地に土着、日頃信仰していた筑波の女体神社を当地に創祀したといいます。江戸時代には柿木村の鎮守社となっており、明治4年村社に列格していました。

柿木女體神社
柿木女體神社の概要
社号 女體神社
祭神 伊弉冉尊
相殿 -
境内社 水神社、八幡社、小松社、稲荷社
祭日 初午日
住所 草加市柿木町450
備考 旧村社



柿木女體神社の由緒

柿木女體神社は、天正3年(1575)に豊田城(茨城県結城郡石下町豊田)が攻め落とされた城主豊田治親の夫人と子供が当地に土着、日頃信仰していた筑波の女体神社を当地に創祀したといいます。江戸時代には柿木村の鎮守社となっており、明治4年村社に列格していました。

新編武蔵風土記稿による柿木女體神社の由緒

(柿木村)女體社
村の鎮守なり、東漸院の持
末社。稲荷、龍王、八幡。(新編武蔵風土記稿より)

草加市教育委員会掲示による柿木女體神社の由緒

当社は、伊弉冉尊を祀り、柿木の鎮守として人々に厚く敬われてきた。
柿木は、中川沿いに下妻街道があり、草加市内にあって最も古くから開発された土地といわれ、伝承では、この土地の開発の祖を豊田氏と伝えている。
豊田氏は、平将門の伯父国香を祖とし、下総国豊田荘の地頭を務め、のち石毛に本城を構えた。しかし、天正三年(一五七五)城主豊田治親が恒例の雷電神社参の時、下妻の多賀谷氏の侵略にあい、治親は討たれ本城も陥ちてしまった。
残された婦人と遺子は急変により石毛を捨て縁をたよってここ柿木まで落ちのび、この地を永世の地と定めたというのである。
豊田氏は信仰心厚く、殊に筑波山女体神社を崇拝していた。それによって分霊をこの地に勧請し創建されたのが当社であるといい、社殿も北方、筑波山に向けて建てられている。(草加市教育委員会掲示より)

「埼玉の神社」による柿木女體神社の由緒

女体神社(柿木町1732柿木字上手)
柿木町の東を南流する中川(古利根川)は、近世以前は利根川本流で、武蔵国と下総国の境界をなしていた。同川河道に沿って自然堤防が発達し、その上を江戸下妻道が走る。
当社は、この江戸下妻道沿いに鎮座しており、近くの中川沿いには音店河岸跡がある。口碑によれば、木曾義仲を討伐のために豊田城から豊田某が差し遣わされ、その帰途に当地に土着した。その縁で、天正三年(一五七五)に豊田城(茨城県結城郡石下町豊田)が攻め落とされると、城主豊田治親の夫人と子供は従者を伴って当地に落ち延びて土着した。この豊田氏は、筑波の女体神社を信仰していたので筑波山の方角に向けて、女体社をこの地に祀ったという。
享保十九年(一七三四)には、神祇管領吉田家から正一位の神位に叙せられた。この時に拝受した「正一位女体権現幣帛」が本殿に奉安されている。
『風土記稿』柿木村の項には「女体社村の鎮守なり、東漸院の持、末社稲荷竜王八幡」と記されている。これに見える別当の真言宗東漸院は、下総国葛飾郡名都借村清滝院の末寺で、草創の年代は不明であるが、開山の定範が永正十三年(一五一六)四月十二日に弟子の良秀に与えた印信が残されている。神仏分離を経て、明治四年に村社となった。(「埼玉の神社」より)


柿木女體神社の周辺図