上馬場天神社。八潮市中央の神社

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上馬場天神社。岩付太田氏の家臣藤原清忠が邸内に勧請

上馬場天神社の概要

上馬場天神社は、八潮市中央にある天神社です。上馬場天神社は、岩付太田氏の家臣藤原清忠が天文3年(1534)当地に移住、氏神である天神を邸内に勧請、村民の崇敬により、新たに天神社を祀り創建したといいます。明治6年村社に列格、昭和53年に末社稲荷社を相殿としたといいます。

上馬場天神社
上馬場天神社の概要
社号 天神社
祭神 菅原道真公
相殿 稲荷神、須賀神
境内社 -
祭日 -
住所 八潮市中央4-9-7
備考 -



上馬場天神社の由緒

上馬場天神社は、岩付太田氏の家臣藤原清忠が天文3年(1534)当地に移住、氏神である天神を邸内に勧請、村民の崇敬により、新たに天神社を祀り創建したといいます。明治6年村社に列格、昭和53年に末社稲荷社を相殿としたといいます。

新編武蔵風土記稿による上馬場天神社の由緒

(上馬場村)天神社
村の鎮守なり、観音寺の持。
末社。稲荷社(新編武蔵風土記稿より)

「埼玉の神社」による上馬場天神社の由緒

天神社<八潮市中央西四-九-七(上馬場字天神耕地)>
上馬場の開発は、岩付太田氏の家臣であった浜野昭家の先祖が行ったといわれ、観音寺の寺伝には「浜野家の先祖の藤原清忠は、天文三年(一五三四)に馬場開発の権利を得てこの地に移住し、やがて浜野と改姓した。その子大学は、父の霊を祀るために自分の屋敷内の鶏鳩塚と本堂北側の開基塚に分骨し、その塚の脇に一寺を建立した。この寺は、十一画観世音菩薩を本尊とすることから観音寺と命名され、元和七年(一六二一)に落慶した」との旨が見える。更に浜野家文書の中の元禄十年(一六九七)の記録には「天神宮別当不動坊と申者天文三甲午年当村開発之節鎮守に祭申候、其後元和七辛酉年中興長清法印当寺を建立寺号を改観音寺と申来り候」とあり、同寺は当社の別当として創立されたことや、観音寺は中興後の号であることがわかる。
一方、当社は、浜野氏が岩槻からこの地に移住して来た際に守り神として持って来たものといわれている。幕末に浜野家一三代の弥右衛門が記した『菅神邸社来由』に記されたその由緒を要約すれば、「浜野大学が守本尊である天神社を邸内に祀っていたところ、一村の者がよく崇敬するので、別に一社を建てて村の鎮守とした。このことは、馬場の村名が天神社の本社のある京都往北野右近馬場に通じると、村民を大いに喜ばせた」とのことであり、本殿には浜野家邸内の天神社に納められているものと同じ像容の天満天神像が安置されている。
浜野家の天満天神像を作った仏師吉光の孫の作と伝えられるこの天満天神像は、鋳鋼製で像高は四・五センチメートルと比較的小さいが風格のある像で、鋳銅製の筒に納められた上で、木製の厨子に納められている。この厨子は、明治十六年に奉納されたものであるが、その裏面にある銘文から、当社の神像は寛文二年(一六六二)に作られた由が読み取れる。ちなみに、浜野家の邸内社に祀られている天満天神像は木造で、像高は七センチメートルとやや大きく、「吉光作」の銘がある。この像は、「軍陣中守肌尊鋳共岩築住浜野大学藤原忠秀(花押)」と記された筒に納められた上、「万治弐年(一六五九)十一月相州鎌倉住人仏師今井庄衛門書尚作」の銘がある木造の天満天神像の腹籠となっている。
棟札によれば、当社は、寛文十三年(一六七三)、貞享五年(一六八八)、宝暦二年(一七五二)、安政六年(一八五九)と、江戸時代に四度の再建がなされていることがわかる。
明治維新後は、神仏分離によって観音寺の管理を離れ、明治六年に村社となり、同四十四年には本殿の改築が実施された。また、大正十二年の関東大震災では、本殿・拝殿共に倒壊したが、翌年にはその再建が果たされた。なお、現在の社殿は昭和五十三年に再建されたものである。(「埼玉の神社」より)


上馬場天神社の周辺図