梅宮神社。狭山市上奥富の神社

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梅宮神社。源朝臣信公が当地を開拓、京都梅宮大社を勧請

梅宮神社の概要

梅宮神社は、狭山市上奥富にある梅宮神社です。梅宮神社は、京都西院の勅旨田として源朝臣信公が平安時代に当地を開拓、承和5年(838)に京都の梅宮大社を勧請して創建したといいます。江戸期には上下奥富村の鎮守として祀られ、元和9年には三代将軍家光が、慶安4年には川越城主松平信綱も参拝したといいます。明治4年村社に列格、明治40年から同42年にかけて、字宮前の富士嶽社など計八社が合祀されたといいます。

梅宮神社
梅宮神社の概要
社号 梅宮神社
祭神 瓊々杵尊(大若子神)・彦火々出見尊(小若子神)・大山祇神(酒解神)・木花咲耶姫命(酒解子神)
相殿 -
境内社 八坂・蚕影・愛宕・三峰、富士嶽・松尾・大山
住所 狭山市上奥富508
祭日 -
備考 -



梅宮神社の由緒

梅宮神社は、京都西院の勅旨田として源朝臣信公が平安時代に当地を開拓、承和5年(838)に京都の梅宮大社を勧請して創建したといいます。江戸期には上下奥富村の鎮守として祀られ、元和9年には三代将軍家光が、慶安4年には川越城主松平信綱も参拝したといいます。明治4年村社に列格、明治40年から同42年にかけて、字宮前の富士嶽社など計八社が合祀されたといいます。

新編武蔵風土記稿による梅宮神社の由緒

(上奥富村)梅宮
勧請の年代詳ならず、あれど此邊にての舊社なりと云、前にも辨ぜし如く、應永の頃は小名西方瀧にありしが、後今の地に移せりと、梅宮と號することは京都梅宮を遷し祀れるなりと云、されば安産を祈るに靈験ありとて、近郷の婦人子を姙むに及ば必祈誓し、社の下なる砂を持歸りて孕婦の枕下に置く時は、必安産す、願満るに及て又来りて元の所へ置て餐するを常とす、本尊十一面観音を安ず、秘佛なれば見ることを許さず、上下奥富村の惣鎮守なりといふ。
末社。稲荷社、八幡社。
別當梅宮寺
花蔵山感應院と號す、新義真言宗、石井村大智寺の門徒なり、本尊彌陀を安ず、海宮古鰐口を蔵す、其圖上の如し、この鰐口裏面は損失して、いまは表面のみ存在せるなり。 (新編武蔵風土記稿より)

「埼玉の神社」による梅宮神社の由緒

梅宮神社(上奥富五〇七)上奥富字宮ノ前
当社は瓊々杵尊(大若子神)・彦火々出見尊(小若子神)・大山祇神(酒解神)・木花咲耶姫命(酒解子神)と、造酒に縁故の深い神々を祀る。このため、古くから酒造会社の信仰が厚い。
鎮座地奥富は、入間川の東岸に広がる低地に位置する農業地域で、平安時代に嵯峨天皇の第二皇子で、武蔵守となった源朝臣信公が、京都西院(京都四条にあった院で、淳和天皇が退位後、住まわれた御所)の勅旨田として、二五〇町歩開田したことに始まるとの由緒を持つ。当社もまた、源信公により、この奥富の地の鎮守として、承和五年(八三八)正月一一日に山城国葛野郡梅津郷(現京都市右京区)鎮座の梅宮大社から分霊されたものと伝えられている。
『風土記稿』は、「勧請の年代詳ならず、されど此辺にての旧社なりと云、前にも弁ぜし如く、応永の頃は小名西滝にありしが、後今の地に移せりと、梅宮と号することは京都梅宮を遷し祀れるなりと云(中略)本地十一面観音を安ず、秘仏なれば見ること許さず、上下奥富村の惣鎮守なりといふ、末社 稲荷社 八幡社 別当 梅宮寺」と当社を紹介し、水田の中にこんもりと茂る当社の森の遠景と、鰐口の図を挿絵に描いている。
この鰐口ほ、径センチメートルで「奉武州入東都奥富郷西方瀧梅官鰐口、應永三十三年五月三日」と刻まれ、市指定文化財となっている。
神社の変遷を史料・伝説によってまとめると次のようになる。
元弘三年五月二二日、新田義貞が武蔵野にて北条軍と交戦の折、当社に戦勝を祈願したと伝える。天文年間、字山崎の地にあった社殿が焼失したため、現在の字宮ノ前の地へ遷座し、氏子もその近くへ移り住んだという。
『梅宮神社由緒記』には、元和九年一一月七日に三代将軍家光が鷹狩りの際、当社に参拝したことや、慶安四年一月二日に川越城主松平信綱も参拝したことが記されており、往時の勢力が推察される。
これほどの由緒を持つ当社ではあるが、残念なことに、嘉永六年一一月二〇日、火災に躍り、古記録等がすべて灰となり、今に伝わる確かな記録はない。現在の社殿は安政四年四月に、境内の古木を資材として再建に着手されたもので、竣工した慶応四年の決算書に再建総工費七一八両一貫七七二文の記録がある。
別当を務めていた真言宗梅宮寺は、村内瑞光寺の隠居寺で、神社の祭祀のみを預かり、葬儀には関与しなかったという。維新後、梅宮寺は廃寺となったため、僧は復飾して梅田姓を名乗り、神職となり今日の梅田稼吉まで代々奉仕している。
明治四年に村社となる。合祀は、明治四〇年から同四二年にかけて行われ、字宮前の富士嶽社はじめ計八社が当社の境内に移された。(「埼玉の神社」より)


梅宮神社所蔵の文化財

  • 桃園三傑図(狭山市指定文化財)
  • 梅宮神社の甘酒祭り(狭山市指定文化財)
  • 梅宮神社鰐口(狭山市指定文化財)

桃園三傑図

「桃園三傑図」とは、中国の三国時代(三世紀)の初め、英雄劉備玄徳、勇猛の武人として知られる関羽・張飛の三名が桃下に会して兄弟の盟を結ぶさまを描いた絵画です。
中央に酒肴を画き、その回りに玄徳・関羽・張飛を描いています。
作者は、雲谷派の画家・雪山堤等淋で、江戸時代後期の人です。
雪谷派は、雪舟の流れを汲む日本画の流派で、約400年前、開祖・雲谷等願が毛利輝元から雪舟の旧居・雲谷庵を拝領して以来、代々毛利藩お抱え絵師として明治初期まで続き、数多くの優れた画人を出した流派で、雪舟流ともいわれています。
額の裏側には、「奉納者江戸浅草田原町境屋傳蔵・文政三年(1820)庚辰年正月吉日」と記されています。(狭山市教育委員会・狭山市文化財保護審議会掲示より)

梅宮神社の甘酒祭り

梅宮神社の甘酒祭りは、関東地方には珍しい頭屋制の響宴形式の祭りで、承和五年(八三八)に京都の梅宮大社から分社されたことから始まったと伝えられています。
頭屋というのは、当番という意味で、現在、上奥富地区の氏子区域を九組の「頭屋組」に分けて、順番に一年間の祭り行事に関与していきます。
甘酒祭りは、二月十日に宵宮祭りの「奥富おごり」「座揃式の儀」「残酒の儀」と、翌十一日の大祭には「第一神事・第二神事」等の儀式が行われます。
十日の晩に行われる「座揃式の儀」は、「頭屋組」の責任者である「杜氏」が主人となり、地区の人々を招き響宴を開きますが、それらには作法・順序があり、謡をあげては酒盃を重ね、全部で六回重ねると式は終了します。そして「残酒の儀」に移り、楽座となり自由な雰囲気の中で盃のやりとりがあり、やがて伊勢音頭・相撲甚句を唄い、それに合わせて踊り、夜が更けていきます。
十一日の午後は拝殿において、昨晩同様に謡をあげては酒盃を重ねる神事が行われ、祭り行事の引き渡しが行われます。
江戸時代の慶安四年(一六五一)には、川越城主松平信綱が主賓としてこの祭りに参加しています。(埼玉県教育委員会・狭山市教育委員会掲示より)

梅宮神社鰐口

甘酒祭で有名な梅宮神社は、平安時代・嵯峨天皇第二皇子武蔵守源朝臣信公が五穀豊穣を願って、承和五年(八三八)に京都から分祀してできたものだそうです。
梅宮神社鰐口は、もと神社の別当梅宮寺のもので青銅製、直径一四センチメートル、片面だけが残っており「奉 武州入東郡奥富郷西方瀧梅宮鰐口 應永三十三年五月三日」と刻まれています。応永三十三年は一四二六年に当ります。
鰐口というのは、寺社の堂前の長押や梁につり、前にたらした鉦の緒と称する布縄をとって参拝者がその前面をたたき鳴らす金属製の鳴器です。円形で平たく、ちょうと鉦鼓を二枚前後に合せたような形で面に多少のふくらみを持ち、下方には鈴に似た割れ口を持っており、両端に円形の眼があり、それに続いて縁に口唇をつけてあるというものです。この形から鰐口と呼ばれるようになったといわれています。(狭山市教育委員会・狭山市文化財保護審議会掲示より)

梅宮神社の周辺図


参考資料

  • 新編武蔵風土記稿