広谷山正音寺。鶴ヶ島市上広谷にある真言宗智山派寺院

猫の足あとによる埼玉県寺社案内

正音寺。鶴ヶ島学校分教場の開校地、中武蔵七十二薬師

正音寺の概要

真言宗智山派寺院の正音寺は、広谷山と号します。正音寺の創建年代等は不詳ながら、川越城主扇谷上杉朝定に仕えていた当地の豪族岸田茂呂源正春が、川越夜戦で敗死した上杉朝定の遺子を岸田家の養子に迎え入れ(和泉正信)、養子その後出家して専営と名乗り当寺を開山、岸田茂呂源正春(弘治2年卒)が弘治元年(1555)開基したといいます。明治17年には当寺に鶴ヶ島学校の分教場が開校しています。中武蔵七十二薬師13番、武州八十八所霊場65番です。

正音寺
正音寺の概要
山号 広谷山
院号 -
寺号 正音寺
住所 鶴ヶ島市上広谷605-1
宗派 真言宗智山派
葬儀・墓地 -
備考 -



正音寺の縁起

正音寺の創建年代等は不詳ながら、川越城主扇谷上杉朝定に仕えていた当地の豪族岸田茂呂源正春が、川越夜戦で敗死した上杉朝定の遺子を岸田家の養子に迎え入れ(和泉正信)、養子その後出家して専営と名乗り当寺を開山、岸田茂呂源正春(弘治2年卒)が弘治元年(1555)開基したといいます。江戸期には上広谷にあった鎮守氷川社の別当を勤め、明治17年には当寺に鶴ヶ島学校の分教場が開校しています。

境内掲示による正音寺の縁起

正音寺
正音寺は山号を広谷山と称し、真言宗智山派の寺で、本尊は聖観世音菩薩である。
開山は僧専営といわれ、弘治元年(一五五五年)に岸田茂呂源正春が開基となっている。
伝承によると、土地の豪族正春は、その時代に川越城主扇谷上杉朝定に仕えていたが、朝定は天文十五年(一五四六年)四月、北条氏康に攻められて東明寺口合戦(川越夜戦)で敗死した。
正春は、孤児となった朝定の子を養子とし岸田家を継がせた。その子が和泉正信と名のり、真言宗に帰依し、正春が開基となってこの寺を建立したと伝えられている。
境内には、弘治二年(一五五六年)霜月(十一月)八日「宝正院殿直応自覚居士」と刻まれた茂呂源正春の墓があり、町内最古の墓となっている。(埼玉県掲示より)

新編武蔵風土記稿による正音寺の縁起

(上廣谷村)
正音寺
廣谷山と號す、新義眞言宗、入間郡石井村大智寺門徒、本尊観音を安ず、開山詳ならず、開基は當村の和泉と云るものゝ由を云傳ふれど、年月詳ならず。
薬師堂。(新編武蔵風土記稿より)

「鶴ヶ島町史(民俗社会編)」による正音寺の縁起

大字上広谷字南権現に所在する。広谷山正音寺と号する。宗派は真言宗智山派で、総本山は智積院。本尊は聖観音菩薩。
弘治元年(一五五五)に、開山僧専営、開基岸田茂呂源正春により創立された。開基は正春の養子の和泉正信とも伝えられる。なお正信は、元の川越城主上杉朝貞の子という。岸田氏は、上広谷村の草分けで、その居住地は本村と呼ばれる。正音寺は、岸田一族の氏寺として発足したものと思われる。五味ヶ谷に分出した家でも、氏寺として観音堂を創立した。
境内には正春とその内室を初めとする市内最古級の墓石が並んでいる。
明治一七年には、本堂を仮校舎として、鶴ヶ島学校の分教場が置かれた。つまり当時の鶴ヶ島域内の教育拠点は、中央が善能寺、東部が正音寺、西部が上新田の長福寺であったということになる。この上広谷分教場は、後に五味ヶ谷に移転し、鶴ヶ島第二小学校の前身となった。
近世のある時期から、石井(現坂戸市)の大智寺を本寺としていた。明治一四年に京都醍醐無量寿院の末寺であった大智寺が京都東山七条の智積院の門末に変わり、それに伴い正音寺も智積院を総本山とするようになった。(「鶴ヶ島町史(民俗社会編)」より)


正音寺の周辺図


参考資料

  • 「新編武蔵風土記稿」
  • 「鶴ヶ島町史(民俗社会編)」