脚折雷電社。鶴ヶ島市脚折町の神社

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脚折雷電社。国選択無形民俗文化財の脚折雨乞神事

脚折雷電社の概要

脚折雷電社は、鶴ヶ島市脚折町にある神社です。脚折雷電社の創建年代等は不詳ながら、寛永年間(1624-1645)頃の干拓により雷電池が小さくなり、棲んでいた大蛇が上州板倉へ逃げてしまい、雨乞いをしても降雨に恵まれなくなってしまったと伝えています。以降、板倉の雷電社で水をもらい大蛇を作って池に入れて祈る神事となったとしており、「安永・天明の頃(一七八〇前後)の隆英法印の代には、雷電池の雨乞いにおいて効験が顕著」と善能寺で紹介されていることから、江戸期には善能寺が神事を勤めていたようです。明治維新後の神仏分離を経て、明治45年脚折白鬚神社の境内へ遷座し境内社として祀られていましたが、昭和35年還座しています。脚折白鬚神社を出発し、当地で行われる脚折雨乞神事は国無形民俗文化財に選択されています。

脚折雷電社
脚折雷電社の概要
社号 雷電社
祭神 雷電社
相殿 -
境内社 -
祭日 脚折雨乞神事8月8日(4年毎)
住所 鶴ヶ島市脚折町5-22雷電池公園
備考 -



脚折雷電社の由緒

脚折雷電社の創建年代等は不詳ながら、寛永年間(1624-1645)頃の干拓により雷電池が小さくなり、棲んでいた大蛇が上州板倉へ逃げてしまい、雨乞いをしても降雨に恵まれなくなってしまったと伝えています。以降、板倉の雷電社で水をもらい大蛇を作って池に入れて祈る神事となったとしており、「安永・天明の頃(一七八〇前後)の隆英法印の代には、雷電池の雨乞いにおいて効験が顕著」と善能寺で紹介されていることから、江戸期には善能寺が神事を勤めていたようです。明治維新後の神仏分離を経て、明治45年脚折白鬚神社の境内へ遷座し境内社として祀られていましたが、昭和35年還座しています。

新編武蔵風土記稿による脚折雷電社の由緒

(脚折村)
雷電社に関する記載なし (新編武蔵風土記稿より)

「鶴ヶ島町史(民俗社会編)」による脚折雷電社の由緒

白鬚神社摂末社
雷電社。祭神は大雷神。明治四五年に、字雷電のカンダチガイケ(雷電池)池頭より境内社として移転、昭和三五年に再び元の地に遷座した。例祭日は八月一八日であったが後に八月八日に変更。昭和初期頃まではこの日に里神楽を奉納した。この社で行われる雨乞行事は著名である。(「鶴ヶ島町史(民俗社会編)」より)

「埼玉の神社」による脚折雷電社の由緒

白鬚神社<鶴ケ島町脚折一七一五(脚折字下向)>
雷電様は、飛び地境内の雷電池の傍らに祀られ、古くから雨乞いで著名である。この池は、昔は広く大きなもので、池の主である大蛇が棲んでいた。ところが寛永のころ干拓され池が小さくなり、大蛇は上州板倉の雷電池に引越してしまい、以来ここに祈っても雨が降らなくなってしまった。このため雨乞いの時には板倉の雷電社に祈ってお水をもらい、大蛇を作って池に入れて祈ると雨に恵まれたという。
池のほとりに大蛇を待つと、いずこともなく「ドン、ドン、ドン」と単調な太鼓の音が聞こえてくる。やがて三〇〇人余りの人波を乗り越えて物凄い形相の大蛇(この時には竜と呼ばれる)が現れる。人々は余りのことに声もない。パかっと口を開けた竜が池に入る。三周して担ぎ手が酒を飲み、再び池に入り二周する。三〇〇人の担ぎ手は「雨降れたんじゃく、ここえ懸れ黒雲」と叫ぶ。まことに勇壮な光景である。(中略)昭和二余年に雨乞い保存会が出来て、照り降りかまわず四年に一度行うことになっている。(「埼玉の神社」より)


脚折雷電社所蔵の文化財

  • 脚折雨乞神事(国選択無形民俗文化財)

脚折雷電社の周辺図


参考資料

  • 「新編武蔵風土記稿」
  • 「鶴ヶ島町史(民俗社会編)」
  • 「埼玉の神社」