多和目天神社。坂戸市多和目の神社

猫の足あとによる埼玉県寺社案内

多和目天神社。領主稲生家の陣屋で創建、多和目天神社の獅子舞

多和目天神社の概要

多和目天神社は、坂戸市多和目にある神社です。多和目天神社は、徳川家康が関東に入国した天正18年(1590)から明治維新まで当地の領主だった稲生次郎左衛門光正が、氏神と崇敬する天神を当地に勧請したといいます。稲生家は当初当地近辺及び西方に陣屋を構えていたとされ、後年江戸屋敷へ移り、陣屋跡に祀られていた当社がいつしか村の鎮守として祀られるようになったものと思われます。明治維新後の社格制定に際し明治5年村社に列格、明治41年字平の白山神社、字岩口後の熊野神社、同境内社稲荷神社・愛宕神社を合祀しています。

多和目天神社
多和目天神社の概要
社号 天神社
祭神 菅原道真公
相殿 -
境内社 稲荷社、愛宕社、三峰社、弁財天
祭日 祈年祭2月25日、夏越祓6月30日、例大祭10月17日
住所 坂戸市多和目384
備考 -



多和目天神社の由緒

多和目天神社は、徳川家康が関東に入国した天正18年(1590)から明治維新まで当地の領主だった稲生次郎左衛門光正が、氏神と崇敬する天神を当地に勧請したといいます。稲生家は当初当地近辺及び西方に陣屋を構えていたとされ、後年江戸屋敷へ移り、陣屋跡に祀られていた当社がいつしか村の鎮守として祀られるようになったものと思われます。明治維新後の社格制定に際し明治5年村社に列格、明治41年字平の白山神社、字岩口後の熊野神社、同境内社稲荷神社・愛宕神社を合祀しています。

新編武蔵風土記稿による多和目天神社の由緒

(田波目村)
天神社
地頭稲生が陣屋跡にあり、其處の鎮守西福寺持、
末社。辨天社、稲荷社
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稲生某陣屋跡
村の東にあり、八段許の地なり、四方にかた許のまがきをなし、門をも南向に立り、されど近傍にある天神社のあたりも、陣屋跡なりと傳れば、このまがきは纔に古の様を殘せしものなるべし、按に村名の條に載しごとく、先祖次郎右衛門光正御入國の時、武州にて五百石を賜りし由、家譜に載たれば、そのかみ居宅を爰に構へ、後江戸に移りしものなるか、(新編武蔵風土記稿より)

「埼玉の神社」による多和目天神社の由緒

天神社<坂戸市多和目三七九(多和目字天神脇)>
当社が鎮まる多和目は、高麗川流域の毛呂山丘陵東部の低地及び台地に位置する。
創立は『天満宮御本縁之記録』(年欠)によると「天正十四戌年稲生次郎左衛門正信此地を領せしより氏神と崇給へるに村中一同惣鎮とかしつき奉れは神徳日々に新にして願として成就せずと言ふものなし可叶ふ叶はざるは祈人の心に社ありと言ふ」とある。
また、口碑によると当地一帯を領していた殿様が氏神として当社を祀ったという。
『風土記稿』『稲生家先祖書』などによると、稲生次郎左衛門は三河に生まれ、若きころから徳川家康に仕えたとある。長篠の戦いを始めとして数々の武功を立て、和泉に三百石・遠州に二百石を賜ったが、天正一八年に武蔵国高麗郡入西のうち多和目・和田・善能寺の三ヵ村ほか足立郡数ヵ村をその替え地として領し、以後、明治元年、武蔵知県事に隷するまで代々稲生氏領地とされたとある。稲生氏が当地を知行した年代の記載に前記史料と四年のずれが見られるが、天正年間すでに領有していたことは確かなようである。
当社には獅子舞(市指定文化財)が伝わるが、その由来については、口碑に「往時、当地の領主であった稲生様が役人たちの士気を鼓舞するために、高萩村女影から伝えられた獅子舞を人足に習得させ、天神様に奉納したのに始まる」という。舞の中で「参り来てこれのお家を眺むれば、みがき上げたる槍が五万本」「五万本の槍をかついで出る時は、安房も上総もこれの御知行」と歌い上げることからも稲生氏との関係がうかがわれる。
当地周辺一帯は「稲生屋敷」と呼ばれ、神社の西方が安土桃山期の稲生陣屋跡であると伝わるところからも当初稲生氏の氏神として祀られていたものが、時代が下り当村の鎮守として崇敬されるに至ったものと考えられる。
往時の別当は天台宗西福寺が務めていた。
明治五年に村社となり、同四一年には字平の白山神社、字岩口後の熊野神社、同境内社稲荷神社・愛宕神社を合祀した。
主祭神は菅原道真公である。一間社流造りの本殿は昭和五六年の再建で、それまでの社殿の形式をそっくり模したものである。内陣には天神座像を安置する。また、宝物として経文八巻・太刀二口・旧本殿に下がっていた御簾一連を蔵する。なお、経文を納める箱のふたには、「武州入間郡多和目村天満宮御宝前奉納 宝暦六丙子年九月 稲生備中守藤原正延書写之納」の墨書が見られる。(「埼玉の神社」より)


多和目天神社所蔵の文化財

  • 多和目天神社の獅子舞(坂戸市指定無形民俗文化財)
  • カゴノキ(鹿の子木)(坂戸市指定天然記念物)

多和目天神社の獅子舞

江戸時代、多和目の領主だった稲生家によって、天神社に奉納されたのが始まりと言われています。毎年、秋の天神社のお祭りに、村人の安全を護り、豊年を祝う獅子舞が演じられます。
獅子舞は、昔から地元の人々によって受継がれてきました。
江戸時代の天保の頃(一八三〇年~一八四三年)、高萩村女影(現在の日高市)から伝えられたと言われ、多和目の領主稲生家より天神社へ奉納されたのが始まりとされています。昭和五七年(一九八二年)太鼓の張替えを行った時、胴の内側に「天保四年(一八三三)年江戸浅草」と記されているのを発見しました。言い伝えによる獅子舞の開始時期は大きく間違っていないようです。
獅子舞を舞うのは小・中学生から高校生と氏子の有志で、演者は天狗、大獅子、中獅子、女獅子、軍配を振って舞いを盛り上げる大狂(へいおい)、花笠をかぶりささらを擦るささらっ子、舞の合図をするほら貝などから構成され、笛方と唄い方が演奏をします。演目は「すり違え」の唄、「シバ掛り」の唄、「竿掛り」の唄の三曲です。
獅子舞の当日、獅子の宮参りは天下泰平、五穀豊穣、氏子の繁栄、お祭りの成功を願って、舞いながら社殿を三周します。その後、獅子舞行列を組んで西郷へ向かい、火の見広場で一番の「すり違え」を舞います。再び天神社にもどって、獅子舞を奉納します。
秋も深まる十月に、多和目の里に流れる笛やささらの音に合わせて、三頭の獅子が太鼓を打ち鳴らして踊る姿は、勇壮の中に優美な趣をたたえています。(坂戸市教育委員会掲示より)

カゴノキ(鹿の子木)

この樹木は、正式名称が判明するまで「なんじゃもんじゃの木」と呼ばれていました。
昭和五十九年に埼玉大学の永野教授の鑑定により、学名をクスノキ科に属する「カゴノキ」で、名勝は「鹿の子木」と判明しました。
この樹木は暖地性の常緑喬木で、沖縄・九州・四国を中心に分布している樹木で、関東以北ではほとんど生育していない、植生上も貴重な樹木であることがわかりました。
樹木の名称の由来は、淡褐色を帯びた樹皮が円形に点々と剥落し、この部分に次々と白い木肌が現れます。この様子が、鹿の子の斑点と同じように見えることから、この名称がつけられたと考えられます。
樹木の規模は、樹高十五メートルを測り、樹齢千年といわれていますが。樹木医の診断では、八〇〇年程とされています。(坂戸市教育委員会掲示より)

多和目天神社の周辺図


参考資料

  • 「新編武蔵風土記稿」
  • 「埼玉の神社」(埼玉県神社庁)