飯盛神社。坂戸市片柳の神社

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飯盛神社。片柳長門入道が開拓した片柳の産土神

飯盛神社の概要

飯盛神社は、坂戸市片柳にある神社です。飯盛神社は、片柳長門入道が康安年間(1361-1632)に開拓、産土神として飯盛大明神を祀り創建したといいます。元亀2年(1571)には岩槻城太田氏の被官恒岡入道大林軒道会日勢が、妙本寺住持日慶上人を招請し、次いで三十番神を勧請し当社に併せ祀ったといいます。明治維新後の神仏分離により三十番神を休臺寺へ遷座、明治5年には村社に列格、明治40年地内の六社を合祀し飯盛神社と号しています。

飯盛神社
飯盛神社の概要
社号 飯盛神社
祭神 豊保食姫命
相殿 -
境内社 稲荷社
祭日 灯籠10月16日
住所 坂戸市片柳1829
備考 -



飯盛神社の由緒

飯盛神社は、片柳長門入道が康安年間(1361-1632)に開拓、産土神として飯盛大明神を祀り創建したといいます。元亀2年(1571)には岩槻城太田氏の被官恒岡入道大林軒道会日勢が、妙本寺住持日慶上人を招請し、次いで三十番神を勧請し当社に併せ祀ったといいます。明治維新後の神仏分離により三十番神を休臺寺へ遷座、明治5年には村社に列格、明治40年地内の六社を合祀し飯盛神社と号しています。

境内石碑による飯盛神社の由緒

由来
片柳の地は康安年間片柳長門入道の草蒼の土地なり。産土神として飯盛大明神を祀る。
御魂は伊勢の國外宮豊保食姫命(保食神)なり。伊勢の國外宮の地毛に類似して、西側に山田川、北側に流るるを御神号を以って飯盛川と唱えり。
元亀貮年當所の地頭岩槻城太田氏の被官にて恒岡入道大林軒道会日勢と片柳の郷長柳山妙慶寺創建開山の祖相州比企ヶ谷妙本寺住持本行院日慶上人を請じて社殿を建立し飯盛大明神、三十番神を併祀し神佛混淆の神社とす。爾来約参百有餘年を経て明治に入り混淆の制度廃止となり三十番神を正覚山休臺寺に遷座する。
明治五年に村社に列せられる。後明治四拾年五月村内の無格社、稲荷社、荒神社、熊野社、天神社、八坂社、白山社の六社を合祀し飯盛神社と號す。
拝殿は安政貮年の再建である。(境内石碑より)

新編武蔵風土記稿による飯盛神社の由緒

(片柳村)
稲荷社
村民の持なり。
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飯盛明神社
當社は舊き鎮座の由傳へり、元亀年中三十番神を配祀すと云、休臺寺の持。(新編武蔵風土記稿より)

「埼玉の神社」による飯盛神社の由緒

飯盛神社<坂戸市片柳一八二九(片柳字宮の前)>
片柳の鎮守である当社は、通称飯盛様と呼ばれ、また神仏混淆時代に三十番神を祀っていた名残で番神堂ともいう。社殿の建築については棟札写しに「安政二年九月 大工棟梁武州高麗郡的場村柴原建五郎藤原規守」とある。
伝承として康安年間に創立というが確たる資料はない。『風土記稿』に「飯盛明神社 当社は旧き鎮座の由伝へり、元亀年中三十番神を配すと云、休臺寺の持」とあり、更に休臺寺の項に「当寺に飯盛神社の古棟札を蔵せしが、何の頃か失へる由」と載せる。また、元亀二年、地頭岩槻城太田氏被官恒岡入道大林軒道会日勢という者が、片柳郷長柳山妙慶寺(現休台寺)の開祖、鎌倉比企谷妙本寺住持日慶上人に請て三十番神を勧請したとも伝える。恐らくは、農耕神として祀られていた神に三十番神を配したものであろう。
主祭神は豊保食姫命で、伊勢の外宮と同じであると伝え、外宮の鎮座地である山田原にちなみ、当社近くの川を山田川と称している。
明治初めの神仏分離により三十番神を休臺寺に遷座、明治五年に村社となり、同四〇年には熊野神社をはじめとする六社を合祀した。(「埼玉の神社」より)


飯盛神社の周辺図


参考資料

  • 「新編武蔵風土記稿」
  • 「埼玉の神社」(埼玉県神社庁)