醫王寺。延慶2年銘の板石塔婆、北足立八十八ヵ所霊場
醫王寺の概要
真言宗豊山派寺院の醫王寺は、金輪山威光院と号します。醫王寺の創建年代等は不詳ながら、延慶2年銘(1309)の板石塔婆はさいたま市有形文化財に指定されています。村民九郎兵衛の先祖金子内匠が開基となり創建したといいます。北足立八十八ヵ所霊場40番、武蔵東向寅薬師足立十二札所(南側)5番です。
山号 | 金輪山 |
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院号 | 威光院 |
寺号 | 醫王寺 |
住所 | さいたま市南区白幡2-16-8 |
宗派 | 真言宗豊山派 |
本尊 | 大日如来像 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
醫王寺の縁起
醫王寺の創建年代等は不詳ながら、村民九郎兵衛の先祖金子内匠が開基となり創建したといいます。
新編武蔵風土記稿による醫王寺の縁起
(白幡村)醫王寺
新義真言宗、玉蔵院末、金輪山威光院と號す、開基は村民九郎兵衛が先祖金子内匠なりと云、此人己か屋舗に薬師堂を造立せしとき、當寺をも建立して菩提寺とし、且かの薬師堂を守らしめしと云、其年歴等詳ならず、開山は修験の僧なりしと云へど、其名さへ傳へず、本尊大日を安ず。
鐘楼。この鐘楼は村内浅間の社地にあれど、元より當寺の鐘なりと云、鐘は寳暦五年の鋳造なり。
薬師堂
本尊は弘法大師の作と云、此堂も金子内匠の建立せし所なり、醫王寺持、下並に同じ(新編武蔵風土記稿より)
醫王寺所蔵の文化財
- 延慶二年銘板石塔婆一基(さいたま市指定有形文化財)
阿弥陀三尊種子板石塔婆一基
板石塔婆は、鎌倉時代から南北朝時代を経て室町時代までの間に、供養塔や墓塔として盛んに建てられた石製塔婆です。その材料に適した緑泥片岩などの石材に恵まれた埼玉県近辺には、特に多く現存しています。
この板石塔婆は、上部と下部を欠いていますが、完形であれば四メートル近くあったものと推定されるものです。これは市内ではとびぬけて大きく、県南でも最も大きなもののひとつといえます。蓮台上に阿弥陀如来を表す種子「キリーク」が深く薬研彫され、その下には梵字による光明真言が刻まれています。さらにその下には「延慶二年己酉十一月晦日」(一三〇九)の紀年銘と、次のような造立趣旨が刻まれています。
右率都婆者大□□摩耶□
爰唱幽霊俄滅□留遺詞□
師親別離難押恋涙仍各為
訪度魂奉立功徳普及法也
文字が欠けているところもありますが、板石塔婆のことを「率都婆」と呼んだことを知るうえで欠かせない銘文です。
鎌倉時代後期に建てられた板石塔婆の代表的なものとして、大きさ、銘文のうえからもきわめて貴重な資料といえます。(宗教法人醫王寺・浦和市教育委員会掲示より)
醫王寺の周辺図
参考資料
- 「新編武蔵風土記稿」