慈恵稲荷社。浦和宿上町の人々によって祀られていた社
慈恵稲荷社の概要
慈恵稲荷社は、さいたま市浦和区常盤にある神社です。慈恵稲荷社の創建年代は不詳ですが、浦和宿上町の人々によって祀られていた社だといいます。

社号 | 慈恵稲荷社 |
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祭神 | 稲荷神 |
相殿 | - |
境内社 | 疱瘡神、八雲社、市神社 |
住所 | さいたま市浦和区常盤1-5-19 |
祭日 | - |
備考 | - |
慈恵稲荷社の由緒
慈恵稲荷社の創建年代は不詳ですが、浦和宿上町の人々によって祀られていた社だといいます。
「埼玉の神社」による慈恵稲荷社の由緒
稲荷社(常盤1-5-19)
中山道の三番目の宿場であった浦和宿は、南北一〇町四二間(約一一ハ五・六メートル)の規模を持ち、北から上町・仲町・下町の三つに分かれていた。当社は、そのうちの上町の人々によって祀られていた神社で、当初は単に稲荷社と称していたが、後に慈恵の文字を冠し、慈恵稲荷神社と呼ばれるようになった。慈恵の文字を冠するようになった時期は定かではないが、『明細帳』では「慈恵」の文字が後で加筆されていること、「慈恵稲荷社」の文字を刻んだ社号額や社号標が大正十四年に奉納されていることから考えると、同年の境内整備や翌年の本殿改築・拝殿新築といった事業を機に改称したものと思われる。
一方『風土記稿』浦和宿の項を見ると、「稲荷社三宇一は成就院持、二は村民持」とある。そのうちの「成就院持」の稲荷社が当社のことであり、「村民持」の稲荷社は常盤三丁目にある笹岡大稲荷・笹岡小稲荷のことと思われる。当社の北に隣接する成就院は、玉蔵院の末寺に当たる真言宗の寺で、通称を「上寺」といい、明治四年に一旦廃寺になったが、平成二年に復興された。また、当社の境内と成就院の大門の所には、各々大きな樅の木があり、中山道を通る人から見ると、それが一本にも二本にも見えたという。そこで、人々は「一本だ、いや二本だ」と言い争ったため、この樅の木は「争い樅の木」として知られていたが、明治九年九月の台風で倒れてしまった。(「埼玉の神社」より)
新編武蔵風土記稿による慈恵稲荷社の由緒
(浦和宿)稲荷社三宇
一は成就院持、二は村民持(新編武蔵風土記稿より)
慈恵稲荷社所蔵の文化財
- 浦和宿二・七市場跡
浦和宿二・七市場跡
浦和の市場は戦国時代に開設されたものと考えられ、天正十八年(一五九〇)には豊臣秀吉の家臣である浅野長吉から喧嘩口論などを禁じた「禁制」が「浦和市」に対して出されています。浦和市は月六回開かれる六斎市と呼ばれるもので、毎月二と七の日に開かれたため(二日・七日・十二日・十七日・二十二日・二十七日)、「二・七市場」といわれています。
江戸時代、十返舎一九は「代ものを 積重ねしは 商人の おもてうらわの 宿の賑い」と詠み、浦和の市の賑いを表現しています。
また、川口芝の長徳寺住持である龍派禅珠は、ある歳の暮れ、浦和の宿で、屠蘇、麹、膠、末醤(味噌と醤油)、新暦などを購入しています。
周辺では、蕨(一・六の市)、鳩ヶ谷(三・八の市)、与野(四・九の市)、大宮(五・十の市)で市が設けられており、毎日どこかで市が開かれていたことになります。(境内掲示より)
慈恵稲荷社の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 「埼玉の神社」(埼玉県神社庁)