上大久保氷川神社。さいたま市桜区上大久保の神社

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上大久保氷川神社。さいたま市桜区上大久保の神社

上大久保氷川神社の概要

上大久保氷川神社は、さいたま市桜区上大久保にある神社です。上大久保氷川神社の創建年代等は不詳ながら、「正応二年(一二八九)から「五九の市」と称して、五日・十五日・二十五日に鴨川の川上にある山王社で市が立ち、九日・十九日・二十九日に川下の氷川社で市が立った。」といい、古くよりの鎮座といいます。明治6年に村社となり、明治40年に上大久保字天神の無格社天神足立合社を合祀、鎮座地一帯が埼玉大学の敷地となったため、昭和41年当地に遷座したといいます。

上大久保氷川神社
上大久保氷川神社の概要
社号 氷川神社
祭神 須佐男尊
相殿 -
境内社 稲荷社
住所 さいたま市桜区上大久保562
祭日 -
備考 -



上大久保氷川神社の由緒

上大久保氷川神社の創建年代等は不詳ながら、「正応二年(一二八九)から「五九の市」と称して、五日・十五日・二十五日に鴨川の川上にある山王社で市が立ち、九日・十九日・二十九日に川下の氷川社で市が立った。」といい、古くよりの鎮座といいます。明治6年に村社となり、明治40年に上大久保字天神の無格社天神足立合社を合祀、鎮座地一帯が埼玉大学の敷地となったため、昭和41年当地に遷座したといいます。

「埼玉の神社」による上大久保氷川神社の由緒

当地は鴨川左岸の自然堤防上に立地し、中世には大窪郷に属した。嘉永四年(一八五一)の「藤原細沼本系図」によれば、正応二年(一二八九)から「五九の市」と称して、五日・十五日・二十五日に鴨川の川上にある山王社で市が立ち、九日・十九日・二十九日に川下の氷川社で市が立った。往古この二社は兄弟の神で、本地に十一面観音を祀るという。山王社は大久保領家の日枝社で、氷川社が当社である。
「大久保つじ村絵図」(大熊章一家文書)には、川からやや離れた鎌倉街道沿いに、東から「上らくじ」「ひ川」「やくしどう」が並んで見える。「上らくじ」は、『風土記賂』上大久保村の項に「氷川社 村の鎮守なり、常楽寺の持」と載るが、神仏分離により当社の別当を離れ、廃寺となった。また、「やくしどう」は、いつのころか常楽寺境内に移され、釈迦堂として祀られたという。なお、この絵図には京六(享禄)元年(一五二八)の年紀が見えるが、これには疑義がある。
当社は明治六年に村社となり、同四十年に上大久保字天神の無格社天神足立合社を合祀した。昭和三十六年に当社境内を含む周辺一帯が埼玉大学の敷地となることが決定したため、同四十年に上大久保一二八番地の旧鎮座地から現在地に移転することとし工事が始められた。翌四十一年二月十四日に、新たに成った社殿で遷座祭が行われ、翌十五日には例祭に合わせて社務所の落成奉祝が盛大に執り行われた。(「埼玉の神社」より)

新編武蔵風土記稿による上大久保氷川神社の由緒

(上大久保村)氷川社
村の鎮守なり、常楽寺の持。
末社。稲荷社(新編武蔵風土記稿より)


上大久保氷川神社所蔵の文化財

  • 上大久保氷川神社本殿一棟(さいたま市指定有形文化財)

上大久保氷川神社本殿一棟

この神社本殿は、もと埼玉大学構内にあったが、昭和四十年にこの地に移された。伝えでは、この本殿は、武蔵国一宮氷川神社(大宮市高鼻町)の旧本殿を譲り受けたものという。
本殿は、二間社流れ造りで、身舎の桁行二・七〇メートル、梁間一・八九メートル、向拝の出一・〇〇メートルである。土台上に立ち、身舎柱は、木鼻付きの頭貫がわたされている。柱上は三斗組(側柱上は連三斗組)で、妻飾りは虹梁大瓶束式である。
身舎前面は切目縁となり、一段下りた位置に向拝柱が立ち、その前面に浜床がつく。なお、屋根は現在桟瓦葺きとなっている。
この本殿は、再度と思われる移築で、改変が認められるものの、初回の移築では、補修個所も当初の意匠を踏襲しており、屋根を除く他の部分は、旧状を保っている。
この本殿の建立の時代は、中世末ないし近世初頭と考えられ、氷川神社本殿として浦和周辺にいくつかの例を見る二間社流れ造りの古制を伝える好例であるとともに、武蔵国一宮の旧本殿の伝承のある一遺構として保存価値が高い。(氷川神社・浦和市教育委員会掲示より)

上大久保氷川神社の周辺図


参考資料

  • 新編武蔵風土記稿
  • 「埼玉の神社」(埼玉県神社庁)