大間木氷川神社。さいたま市緑区東浦和の神社

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大間木氷川神社。武蔵国一宮氷川神社の旧本殿を使用

大間木氷川神社の概要

大間木氷川神社は、さいたま市緑区東浦和にある神社です。大間木氷川神社の創建年代は不詳ですが、旧別当寺三光院の先祖がこの地に土着して当社の祭祀を司るようになったものと思われ、三光院で所蔵していた笈が室町時代の漆工芸晶であることから当社の創建も室町期ではないかといいます。年代不明ながら稲荷社二社と石神井社を合祀しています。また、寛文7年(1667)武蔵国一宮氷川神社(大宮市)の造替にあたり、旧本殿を買受けて建立したものといい、さいたま市指定文化財となっています。

大間木氷川神社
大間木氷川神社の概要
社号 氷川神社
祭神 素盞嗚尊
相殿 -
境内社 -
住所 さいたま市緑区東浦和5-20-2
祭日 例大祭7月11日
備考 -



大間木氷川神社の由緒

大間木氷川神社の創建年代は不詳ですが、旧別当寺三光院の先祖がこの地に土着して当社の祭祀を司るようになったものと思われ、三光院で所蔵していた笈が室町時代の漆工芸晶であることから当社の創建も室町期ではないかといいます。年代不明ながら稲荷社二社と石神井社を合祀しています。また、寛文7年(1667)武蔵国一宮氷川神社(大宮市)の造替にあたり、旧本殿を買受けて建立したものといい、さいたま市指定文化財となっています。(註:類似の伝えは大谷場氷川神社にも有)

新編武蔵風土記稿による大間木氷川神社の由緒

(大間木村)氷川社
當村及び大間木新田・大牧・附島等四ヶ村の鎮守なり、附島村民の附
末社。第六天社、牛頭天王、疱瘡神、天神社、八幡社、荒神社、稲荷社、神明社。
別當。三光院
本山派修験、中尾村玉林院配下なり、本尊不動を安ず、長一尺五寸許、智證大師の作と云
什物。
笈一。亀井六郎奥州下向の時背負し物なりと云、尤古色なるものにて高さ二尺九寸、幅上は一尺九寸餘、下は二尺三寸許、横一尺二寸餘、是に棚三段あり、扉に椿の花と思しき形を彫れり、其外水に澤瀉色の紋など所々に彫りて、其さま古きものと見ゆれど、亀井が所持なせしと云はいかがあらんか、されど近村中尾村の内にも、六郎が屋敷跡などいへる所ありと云は、此邊に六郎がゆかりありしことなるべし、笈の圖は上のごとし。(新編武蔵風土記稿より)

「埼玉の神社」による大間木氷川神社の由緒

氷川神社(大間木1391)
『風土記稿』大間木村の項に、当社は「氷川社。当村及び大間木新田・大枚・附島等四か村の鎮守なり、附島村民の持、末社。第六天社、牛頭天王、痺瘡神、天神社、八幡社、荒神社、稲荷社、神明社、別当三光院。本山派修験、中尾村玉林院配下なり、本尊不動を安ず、長一尺五寸許、智證大師の作と云、什物、笈一亀井六郎奥州下向の時背負し物なりと云(以下略)」と記されている。
往時別当であった三光院の末裔である仲田家には『風土記稿』にも挿絵の載る室町期の優れた漆工芸晶である椿紋鎌倉彫笈(県指定文化財)が残されている。笈とは、行脚僧・修験者などが仏具・食物・衣類などを入れて背負う箱のことで、『風土記稿』では源義経の家来である亀井六郎重清にちなむものであるとしている。この真偽は定かではないが、亀井六郎の屋敷跡とされる所が三光院の本寺に当たる玉林院が所在した中尾村にあったと伝えられている。この笈を背負った三光院の先祖がこの地に土着して当社の祭祀を司るようになったものと思われ、当社の創建も室町期までさかのぼることが推測される。
市指定文化財になっている一間流造りの当社本殿は『明細帳』によると、寛文七年(一六六七)三月に武蔵国一宮氷川神社が再建された際、旧本殿を買い受けたものである。
なお、いつのころか稲荷社二社と石神井社を当社に合祀したという。(「埼玉の神社」より)


大間木氷川神社所蔵の文化財

  • 大間木氷川神社本殿一棟(市指定有形文化財)
  • 赤山街道

大間木氷川神社本殿一棟

この本殿は、「神社明細帳」には、寛文七年(一六六七)、武蔵国一宮氷川神社(大宮市)の造替にあたり、旧本殿を買受けて建立したとある。さらに、平成七年の修理の際、寛文七年二月、氷川大明神一宇を造立した旨が記された棟札が見つかり、この地での建立直を明らかにすることができた。
本殿は、一間社流造り、屋根、旧・こけら葺き(現・こけら葺き形銅板葺き)で、桁行二・五六メートル、梁間二・四五メートルの身舎に奥行一・九六メートルの向拝がつく。土台上に立ち、身舎柱は円柱(縁より下は八角形)で、長押、頭貫、腰貫で固め、柱上は連三斗組となる。中備は蟇股で、正面は鳳凰、左右は牡丹の彫刻である。柱間は、正面が幣軸に板唐戸、他の三面が横嵌板となる。正面および両側面は浜縁がめぐり、脇障子、高欄がつく。妻飾りは、虹梁・太幣束式である。向拝柱は、大面取りの角柱で、身舎柱とは海老虹梁で繋がれている。向拝柱には、絵様木鼻のある水引虹梁を架し、柱上連三斗組、中備は蟇股で、竹に虎の彫刻がある。正面に五級の木階を設け、向拝柱の前面に大床を張る。軒は二重の繁種で、飛檐棰は先端に反り増しが見られる。
平成五年七月、拝殿の火災で罹災し、大きく焼損したが、平成七・八年にかけて浦和市の補助事業として根本修理を施し、寛政期の姿に復した。
この本殿は、武蔵国一宮の旧本殿と考えられる貴重な遺構であり、建立年代を明らかにし、規模大きく、意匠も優れた建築として、きわめて保存価値が高いと言える。(浦和市教育委員会・氷川神社掲示より)

赤山街道

赤山街道は、関東郡代の伊奈氏が寛永六年(一六二九)に陣屋を構えた赤山(川口市赤山)に向かう街道であった。街道の起点は与野市あたりと考えられ、浦和市内の木崎・三室・尾間木地区から八丁堤を通って赤山に通じていた。
伊奈氏は清和源氏の流れを汲む武人で、信州伊奈に住んでいたことから伊奈氏を称した。その後三河に移り松平氏、徳川家康に仕え、家康の関東入国後、伊奈氏は小室(伊奈町)、鴻巣などに一万石を領し、小室や土屋(大宮市)などに陣屋をおいて累代治水事業に力を注いだ。
三代目半十郎忠治は、関東郡代となり、また勘定奉行も兼ね、赤山領七千石を拝領し赤山に陣屋を移した。忠治は治水、感慨、新田開発に力を入れ、特に利根川、荒川の大改修を行い、寛永六年には八丁堤を築き見沼溜井造成に着手した。
現在、赤山街道は与野市や浦和市内で赤山横町とか赤山通りと呼ばれ、歴史と生活が結びついた道路となっている。(埼玉県掲示より)

大間木氷川神社の周辺図


参考資料

  • 新編武蔵風土記稿
  • 「埼玉の神社」(埼玉県神社庁)