木傘社。さいたま市緑区大崎の神社

猫の足あとによる埼玉県寺社案内

木傘社。さいたま市緑区大崎の神社

木傘社の概要

木傘社は、さいたま市緑区大崎にある神社です。木傘社の創建年代等は不詳ながら、応永年間(一三九四~一四二八)に、合戦で敗れた三兄弟が当地に土着し、そのうちの次男が修験となって大泉院と名乗り、庵の南西に鬼門除けとして当社を創建したといいます。由緒が矛盾するものの、社号については、日本武尊(本名は小碓皇子)が東征の折、この地についたところ、時ならぬ暴雹にあった。尊は大木の下で雹を凌ぎ、木の下で除雹の祈祷をすると、たちまち降雹が止んだので、その跡に神社をつくり、降雹を凌いだ木にちなんで木傘神社と命名したといいます。

木傘社
木傘社の概要
社号 木傘社
祭神 日本武尊
相殿 -
境内社 稲荷二社
住所 さいたま市緑区大崎3065
祭日 -
備考 -



木傘社の由緒

木傘社の創建年代等は不詳ながら、応永年間(一三九四~一四二八)に、合戦で敗れた三兄弟が当地に土着し、そのうちの次男が修験となって大泉院と名乗り、庵の南西に鬼門除けとして当社を創建したといいます。由緒が矛盾するものの、社号については、日本武尊(本名は小碓皇子)が東征の折、この地についたところ、時ならぬ暴雹にあった。尊は大木の下で雹を凌ぎ、木の下で除雹の祈祷をすると、たちまち降雹が止んだので、その跡に神社をつくり、降雹を凌いだ木にちなんで木傘神社と命名したといいます。

新編武蔵風土記稿による木傘社の由緒

(大崎村)
木傘明神社
村の鎮守なり、祭神は日本武尊なりといふ、大泉院持。
末社、稲荷社。
大泉院
本山修験、中尾村玉林院配下なり、本尊不動を安ず、古は木傘山靈樹寺と唱へりと云。(新編武蔵風土記稿より)

「埼玉の神社」による木傘社の由緒

木傘社<浦和市大崎三〇六五(大崎字宮坂)>
明治三年に、時の神職井上正が浦和県役所に提出した文書(『埼玉県伝記集成』所収)には、当社の社名について次のような伝説が記されている。日本武尊が東征の途次、当地で時ならぬ降雹に遭い大木の下でしのいでいたが、雹がいよいよ激しくなった。そこで木の下で雹除けの祈誓をすると、たちまちにして晴れ渡った。後に里人が尊を偲び、その大木の跡に一字を祀り木傘明神と称したという。
また、当社の隣地に住み、明治期まで木傘山大泉院と称して、代々別当を務めてきた井上家の口碑では、元々は応永年間(一三九四~一四二八)に、合戦で敗れた三兄弟が当地に土着し、そのうちの次男が修験となって大泉院と名乗り、庵の南西に鬼門除けとして当社を創建した。やがて江戸期に入ると、村の開発が進んで村民も増えたことから、当社が村鎮守として祀られるようになったという。
本殿には「奉納御神前願主六右衛門寛延四年末(一七五一)三月十六日」と記した鳥居形の台座に、「文化乙丑年(一八〇五)拾五世大泉院」と刻んだ金幣を奉安し、また、境内には文政十年(一八二七)に氏子中によって奉納された石灯籠と手水鉢がある。
なお、大崎の地内には、神祇管領吉田家配下の神主で、名主をも務めてきた高橋家が祀った諏訪社もあったが、明治末年に当社に合祀された。後に復祀され、現在は高橋家の後裔により再び祀られている。(「埼玉の神社」より)

さいたま市掲示による木傘社の由緒

木傘神社は、旧大崎村の旧村社である。祭神は日本武尊で、本殿は弘化四年(一八四七)に建立されたものである。
『身辺武蔵風土記稿』には村ノ鎮守ナリ祭神ハ日本武尊ナリトイウ、大泉院持、末社稲荷社と記載されている。
また、この木傘神社には次のような伝説が伝わっている。
その昔、景行天皇の皇子日本武尊(本名は小碓皇子)が東征の折、この地についたところ、時ならぬ暴雹にあった。尊は大木の下で雹を凌いでいたが、ますます激しくなった。そこで、木の下で除雹の祈祷をすると、たちまち降雹が止んだので、その跡に神社をつくり、降雹を凌いだ木にちなんで木傘神社と命名したといわれている。(さいたま市掲示より)


木傘社の周辺図


参考資料

  • 新編武蔵風土記稿
  • 「埼玉の神社」(埼玉県神社庁)