岩槻久伊豆神社。さいたま市岩槻区宮町の神社

猫の足あとによる埼玉県寺社案内

岩槻久伊豆神社。岩槻城・城下町の鎮守、岩槻総鎮守

岩槻久伊豆神社の概要

岩槻久伊豆神社は、さいたま市岩槻区宮町にある神社です。岩槻久伊豆神社は、武蔵国に移住した出雲の土師連が、久伊豆明神を勧請して欽明天皇代(〜571)に創建したと伝えられ、その後鎌倉扇ヶ谷上杉定正が家老太田氏に命じて築城した際に、岩槻城の鎮守として当地に奉鎮したといいます。江戸時代には、岩槻城の鎮守、城下町の鎮守として崇敬厚く、徳川家康公も江戸城の鬼門除けとして祈願したといいます。明治6年岩槻・太田両町の鎮守として村社に列格、大正12年郷社に、昭和20年県社に列格したといいます。

岩槻久伊豆神社
岩槻久伊豆神社の概要
社号 久伊豆神社
祭神 大国主命
相殿 -
境内社 -
住所 さいたま市岩槻区宮町2-6-55
祭日 例祭4月19日、10月19日
備考 岩槻保育園



岩槻久伊豆神社の由緒

岩槻久伊豆神社は、武蔵国に移住した出雲の土師連が、久伊豆明神を勧請して欽明天皇代(〜571)に創建したと伝えられ、その後鎌倉扇ヶ谷上杉定正が家老太田氏に命じて築城した際に、岩槻城の鎮守として当地に奉鎮したといいます。江戸時代には、岩槻城の鎮守、城下町の鎮守として崇敬厚く、徳川家康公も江戸城の鬼門除けとして祈願したといいます。明治6年岩槻・太田両町の鎮守として村社に列格、大正12年郷社に、昭和20年県社に列格したといいます。

新編武蔵風土記稿による岩槻久伊豆神社の由緒

(岩槻城並城下町)久伊豆明神社
新正寺曲輪にあり、當城の鎮護にして、城内及城下町の惣鎮守なり。
別當光明院。(新編武蔵風土記稿より)

境内掲示による岩槻久伊豆神社の由緒

久伊豆神社は、今を去る千三百年前、欽明天皇の御代出雲の土師連の創建したものと伝えられる。その後相州鎌倉扇ヶ谷上杉定正が家老太田氏に命じ、岩槻に築城の際城の鎮守として現在地に奉鎮したといわれている。江戸時代歴代城主の崇敬厚く、特に家康公は江戸城の鬼門除けとして祈願せられた。
神社境内は城址の一部で、元荒川が東北に流れ、市内でも数少ない貴重な社叢として知られている。
明治八年一月十一日、火災に遭い、時の城主、町民より寄進された社殿等烏有に帰し、現社殿は、その後氏子崇敬者の誠意により再建されたものである。現在神域は次第に整い、神威はいよいよ高く神徳ますます輝きわたり岩槻市総鎮守として秘匿の崇敬をあつめている。(岩槻市観光協会掲示より)

「埼玉の神社」による岩槻久伊豆神社の由緒

久伊豆神社<岩槻市宮町二-六-五五(太田町字新正寺曲輪)>
元荒川の畔に位置する広々とした杜の中に鎮座する当社は、国土開発・窮民救済の神である大巳貴命を祭神として祀る。かつて、境内には樹齢千年を超えるという関東一の大杉があり、県から天然記念物に指定されていたが、枯死して危険な状態になったため、昭和三十年に惜しまれながらも伐採されてしまった。現在も、境内には様々な古木が林立し、荘厳な雰囲気を醸し出してるが、中でも高さ十二メートル、幹周り一・二メートルもある大榊はよく知られており、榊としては皆野町の椋神社のものに次ぐ県内第二位の大きさを誇っている。
明治八年の火災により、社蔵の記録のすべてが灰燼に帰してしまったため、それまでの当社の由緒については、詳しいことはわからない。言い伝えや『明細帳』の記録によってその歴史をたどると、当社は、人皇第二九代欽明天皇の御代(五三九-五七一)に土師氏が出雲国(現島根県)から岩槻の地に久伊豆明神を勧請し、社殿を建立したことに始まるという。また『中興略記』によれば、中興の開基は相州(現神奈川県)鎌倉扇ケ谷上杉修理丈夫定正で、長禄元年(一四五七)に家臣の太田道灌に命じて岩槻城を築かせた時、久伊豆神社に軍事を祈誓し、社壇を当城中に再興したという。更に天文十九年(一五五〇)九月九日には岩槻城主太田源五郎資正が再興し、以後、岩槻城の鎮守として、代々の城主の崇敬する所となった。
岩槻城は、築城の後、太田氏が六代にわたって継承したが、天正十八年(一五九〇)、豊臣氏の小田原攻撃に際して落城し、以後は高力氏三代、青山氏一代、阿部氏五代、板倉氏一代、戸田氏一代、松平氏一代、小笠原氏二代、永井氏三代、大岡氏八代と、譜代大名が居城としてきた。社宝として立派な武器・武具が代々の城主から献上されていたようであるが、これらも火災でほとんどが消失し、現在は阿部重次が寄進した寛永九年(一六三二)銘の螺鈿鞍のほか、陣太刀・鎧など数点が残るのみである。とりわけ螺鈿鞍は欅材の全面に漆を塗り、螺鈿の装飾を施した美しい鞍で、県指定文化財になっている。
宝永四年(一七〇七)には神祇管領吉田家から正一位に叙された。
維新の後は、版籍奉還・廃藩置県により、明治四年に岩槻城は廃毀され、社格制定に伴って当社は同六年に岩槻・太田両町の村社となった。しかし、同八年一月十一日、不審火により、本殿・拝殿のみならず末社に至るまでことごとく消失するという憂き目にあった。こうした不運から次第に復興が果たされていくが、本殿が再建されるのは明治十五年、拝殿と神楽殿の再建に至っては大正四年のことである。大正十二年には郷社に昇格し、神社としてはすぐにでも県社への昇格を企図していたが、県当局の事務遅滞によってなかなか果たされず、昭和二十年十月十九日、ようやく県社に昇格し、奉告祭が斎行された。(「埼玉の神社」より)


岩槻久伊豆神社の由緒

  • 螺鈿鞍(県指定文化財)
  • 大サカキ(県指定天然記念物)
  • モッコク(岩槻市指定保存樹木)
  • 境内地面積三町歩余(県指定「社叢ふるさとの森」)
  • 城主小笠原長重公奉納宗源宣旨
  • 城主阿部家奉納太刀

螺鈿の鞍

漆塗りの地に螺鈿(貝殻の裏の光沢のある部分)を用いて装飾をあしらった装飾鞍です。
前輪中央に「丸に鶴」、その両側と後輪に「丸にかたばみ」の紋所を散らし、両側には螺鈿が散りばめられています。
居木に寛永九年(一六三二)七月の墨書銘があります。高さ約二九cm。(さいたま市教育委員会文化財保護課掲示より)

久伊豆神社の大サカキ

サカキは、ツバキ科に属し、関東南部以西に自生する常緑の亜高木です。枝は神事に用いられることがあります。
久伊豆神社の社殿奥に生えるこの大サカキは目通り一m五〇cm、高さ一三mに達するもので、埼玉県でも最大級のサカキです。
ほぼ同じ高さの二大幹にわかれていて、それぞれの幹にたくさんの枝葉が出てよく繁茂しています。(さいたま市教育委員会文化財保護課掲示より)


岩槻久伊豆神社の周辺図


参考資料

  • 新編武蔵風土記稿
  • 「埼玉の神社」(埼玉県神社庁)
  • 久伊豆神社