手白神社。比企郡嵐山町吉田の神社

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手白神社。手白香姫を祀る社

手白神社の概要

手白神社は、比企郡嵐山町吉田にある神社です。手白神社は、鏡浄呂池の堤が度々破れたことから、時の村長蘆田基氏が、祀られていた鏡津官弁財天に参詣したところ、手白香姫のご神託を得て天治2年(1125)に創建したといいます。手白香姫は、兄の武烈天皇の政治に苦しむ民衆を救うため、内裏を離れ当地に来て広く里人から慕われたと伝えられ、懐中から鏡を水底に落としてしまったことから、村人はその池を鏡浄呂池と呼び、弁財天を祀ってきたと伝えています。大正二年に峯野神社と同境内社琴平神社、五龍神社六所神社、厳島神社(鏡津宮弁財天)の五社を合祀しています。当社本殿は、合祀した六所神社の建物で、合祀に際して移築したもので町有形文化財に指定されています。

手白神社
手白神社の概要
社号 手白神社
祭神 手白香姫命
相殿 -
境内社 -
祭日 例大祭4月18日前後の日曜日、秋祭り10月18日前後の日曜日
住所 比企郡嵐山町吉田952
備考 -



手白神社の由緒

手白神社は、鏡浄呂池の堤が度々破れたことから、時の村長蘆田基氏が、祀られていた鏡津官弁財天に参詣したところ、手白香姫のご神託を得て天治2年(1125)に創建したといいます。手白香姫は、兄の武烈天皇の政治に苦しむ民衆を救うため、内裏を離れ当地に来て広く里人から慕われたと伝えられ、懐中から鏡を水底に落としてしまったことから、村人はその池を鏡浄呂池と呼び、弁財天を祀ってきたと伝えています。大正二年に峯野神社と同境内社琴平神社、五龍神社六所神社、厳島神社(鏡津宮弁財天)の五社を合祀しています。

新編武蔵風土記稿による手白神社の由緒

(吉田村)
峯明神社
手白明神社
五龍明神社
以上三社、祭神詳ならず、泉蔵院持、
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六所社
天神社
以上二社は村民の持、(新編武蔵風土記稿より)

「埼玉の神社」による手白神社の由緒

手白神社<嵐山町吉田九五二(吉田字宮田)>
当地は、滑川町の地名の由来となった滑川の水源となる地である。丘陵を刻むように流れる谷川が集まり滑川になると共に、沃土が谷口で堆積して良田となったことが吉田の名の由来ともいわれる。
祭神は、仁賢天皇の第三皇女で、継体天皇の皇后となり、欽明天皇の母となった手白香姫命(手白髪皇女)である。
明治十九年の当社再建額によると、手自香姫は、兄の武烈天皇の人民に対する酷刑をいさめたが聞き入れられないことから、密かに内裏を出て、苦難する民衆を救わんと、吉田の里に来た。姫は里人に天理を説き真理を教え、広く里人から慕われるようになった。ある時、姫が池のほとりで手を洗う折に懐中から鏡を水底に落としてしまった。姫は都へ戻る際、このことを里人に告げたが、これにより里人は、姫が鏡を失った池を鏡浄呂池と名付け、そこに鏡津官弁財天を祀った。
時は下って、弁財天の丑寅の方(東北)の鏡浄呂池の堤が、度々破れるので、時の村長蘆田基氏が、早朝、弁財天に参詣したところ手白香姫が現れ、「吾を厚く信仰し、手の業の上達を望む者や手の病を患う者は、宮地に来て祈るように」と基氏に告げた。その後、基氏は、天治二年(一一二五)三月中旬、心願成就により当社を創建した。
社殿は、明治十九年五月に再建されたが、更に大正二年の合祀の際、字宮山の六所神社の社殿を移して現在に至っている。(「埼玉の神社」より)


手白神社所蔵の文化財

  • 手白神社本殿彫刻(町指定有形文化財)
  • 手白神社の大スギ(町指定天然記念物)

手白神社本殿彫刻

手白神社は今から八七〇年ほど前の天治元年(一一二四)に蘆田基氏が創建したと伝える。御祭神は手白香姫命である。大字吉田地区のほぼ中心に位置し、古くより「手の神様」として、近隣の人々からの信仰が厚かった。現在の本殿は、大正二年(一九一三)に峯野神社、五竜神社、六所神社が合祀された際に六所神社の建物を移築したものである。
彫刻は江戸時代の作品で、技法に優れ保存状態も良い。(嵐山町教育委員会掲示より)

手白神社の大スギ

この二本の大杉は、御神木として祀られており、神社の歴史の古さを物語っている。いずれも樹齢は八百年と推定される巨木である。(嵐山町教育委員会掲示より)

手白神社の周辺図


参考資料

  • 「新編武蔵風土記稿」
  • 「埼玉の神社」(埼玉県神社庁)