越畑八宮神社。比企郡嵐山町越畑の神社

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越畑八宮神社。比企郡嵐山町越畑の神社

越畑八宮神社の概要

越畑八宮神社は、比企郡嵐山町越畑にある神社です。越畑八宮神社の創建年代等は不詳ながら、聖武天皇の御代(724-748)の創建と伝えられ、平将門の乱鎮圧のため当地に出陣した経基王は当地に朝敵征討・疫病消除を祈願、霊験あらたかだったことから八ヶ所に八宮社を創建、当社はその一社だとと伝えています。江戸期には越畑村の鎮守として祀られ、明治維新後の社格制定に際し村社に列格、明治40年地内の諸社を合祀しています。当社夏祭りで奉納される越畑の獅子舞は、同社に合祀された浅間神社で奉納されていた獅子舞で、宝薬寺薬師堂と下郷の観音寺とが一年交代で出発場所となり、街道を区だって当社で奉納される獅子舞で、埼玉県無形民俗文化財に指定されています。

越畑八宮神社
越畑八宮神社の概要
社号 八宮神社
祭神 素戔嗚命
相殿 -
境内社 -
祭日 春祭り4月3日、夏祭り7月24・25日前後の土日曜日、秋祭り10月17日、冬祭り12月10日
住所 比企郡嵐山町越畑927
備考 -



越畑八宮神社の由緒

越畑八宮神社の創建年代等は不詳ながら、聖武天皇の御代(724-748)の創建と伝えられ、平将門の乱鎮圧のため当地に出陣した経基王は当地に朝敵征討・疫病消除を祈願、霊験あらたかだったことから八ヶ所に八宮社を創建、当社はその一社だとと伝えています。江戸期には越畑村の鎮守として祀られ、明治維新後の社格制定に際し村社に列格、明治40年地内の字富士山の浅間神社、字立山の雷電社、字柳原の神明社、字社宮司の社宮司社、字後谷の山神社、字下串引の大大獏社、字大堂の八大社、字清水の八幡社を合祀しています。

新編武蔵風土記稿による越畑八宮神社の由緒

(越畑村)
八宮社
村の鎮守なり、別當觀音寺
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淺間社
客人社
大典社
以上三社觀音寺持
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雷電社
金泉寺持(新編武蔵風土記稿より)

「埼玉の神社」による越畑八宮神社の由緒

八宮神社<嵐山町越畑一四四五(越畑字日向)>
県指定無形文化財の獅子舞で知られる当社の由緒は、『明細帳』に「勧請人皇四十七代聖武天皇ノ御宇ト申ス其後承平年中経基公関東征討ノ節此ニ祈願シ遂ニ八ケ所ニ是ヲ祭ルト云フ」と記されている。祭神は『明細帳』や『郡村誌』では応神天皇とされているが、それは、当社の由緒に源経基が出てくるところから、源氏の氏神である八幡神社の祭神を祀ったものと推測される。八宮神社は比企郡に九社鎮座し素戔嗚命や天照大神御子神五柱命・月読命御子神三柱命などを祭神とするところが多い。『比企郡神社誌』で当社の祭神が素戔嗚命とされているのは、そうした他社の例に倣ったものであろうか。なお、源経基が八宮神社を祀ったのは、越畑・広野・杉山・能増・中爪・志賀・下小川・下里の八か所で、下里に八宮神社の本社があるという。
越畑の地内には、当社のほかに字富士山の浅間神社、字立山の雷電社、字柳原の神明社、字社宮司の社宮司社、字後谷の山神社、字下串引の大大獏社、字大堂の八大社、字清水の八幡社があったが、いずれも明治四十年四月に当社に合祀された。ただし、社宮司社と大天獏社は書類の上での合祀にとどまったもので、現在も旧地に社殿が残っており、祭りも行われている。現在の当社の拝殿は、この合祀を契機として大正八年に再建されたものであるが、境内の「合祀改築記念碑」によれば、その苦労は大変なものであったことがわかる。(「埼玉の神社」より)


越畑八宮神社所蔵の文化財

  • 越畑の獅子舞(埼玉県指定無形民俗文化財)

越畑の獅子舞

毎年七月二十五日に近い日曜日(元は旧暦六月十五日)八宮神社に奉納される越畑の獅子舞は、元禄年間(一六九〇年頃)に伊勢国(三重県)山田より伝授されたと伝えられ、雨乞いや疫病除け、豊作などの祈願に舞われてきました。
この獅子舞では、摺り始め(出発)の場所を中郷の薬師堂と下郷の観音寺と一年交代で行い、華やかな万燈を先頭に法螺貝、横笛とともに「街道下り」をした後、八宮神社の庭で初庭の舞、二庭目の舞を中立と呼ばれるひょっとこの面をつけた道化と大頭・雄獅子・雌獅子の三頭の獅子が舞い踊るというものです。
また花笠っ子と呼ばれる四人の子どもがササラと称する竹製楽器をs摺り合わせて音をだし、奉納の際は、笛の音色とともに雰囲気を盛りあげます。
この獅子舞は、八宮神社氏子の家々の長男に代々受け継がれていたものですが、近年は、地区の小・中学生を対象として後継者の育成に力を入れています。(嵐山町教育委員会掲示より)

越畑八宮神社の周辺図


参考資料

  • 「新編武蔵風土記稿」
  • 「埼玉の神社」(埼玉県神社庁)